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三児の父親

「三児の父親」

 11月16日午前1時52分に、3.270gの第3子(長男)が生まれた。
 長女が出生の時には、私は都農町立病院に出張中であり、早朝に医局長から、「田原君、女の子だよ。元気だよ。」と電話連絡があり、宮崎医科大学産婦人科に帰ってみると(8人ほどのベビーがそこにいたが)、唯一人自分の子どもだけが保育器に入っていた。口をポカンと開けていて、色の黒い2.360gの女の子だった。
 次女の出生の時には、骨盤位であったので、私が付いていた。西田病院の手術室で帝王切開の準備をしている最中に、幸いにも生まれた。逆子の為に、ETみたいな顔で、これでまともな女の子の顔になるのだろうかと心配したものである。やはり色の黒い2.800gの女の子であった。
 第3子(伸一)は、手足の細い、二重まぶたの、口元の引き締まった、ほっそりして感じの、ハンサムな、色の白い3.270gの男の子であった。
 私の場合、卒業して医師国家試験が終わってから(父の誕生日の4月18日に)直ぐに結婚式を挙げたが、新婚旅行は、臼杵の石仏を見ただけであった。県病での手取りは1カ月7万しかなく(7万の内、2万が家賃であったが)、100万の女房の貯金を小刻みに使って行き、1カ月半後に医大に就職した時には、その残高が一桁になっていた。
 周りから、「まだ、赤ちゃんは?」と言う声が多かったが、経済的な理由で3年間は、作らなかった(作れなかったのではない。念の為に)。
 医大に行ってからは、直ぐに文部教官助手にしてもらったし、バイトもして、手取りが25万前後になり、それでテレビを買い、カメラも買い、前から買いたかった医学の本も沢山買い、それでも金銭面で少しゆとりが出来たので、子どもを作ることにした。
 星占いの本を見て、生まれる日が自分達とちょうど120度になる様に計画し、その通りにすることが出来た。生まれても仕事の方が忙しくて長女の顔をまともに見ることは少なく、私の家は母子家庭同然であった。つまり、私は朝早く行き、夜は深夜の0時近くに帰ることが多かった。
 昭和55年3月末に西田病院に就職して忙しく働いていたら、「あんまり忙し過ぎて子どもを作る暇がないのでは?」とか、「夫婦生活はどうなっているんじゃろうか?」とか、周りの人が色々うるさいので、又、作ることにした。前回同様に、生まれる日が家内と又120度になる様に計画してその通りにすることが出来た。
 二番目の子どもの時には、お腹の中にいる時から、クラシック音楽を聴かせ、生まれてからもよく接触し、お風呂にも入れ、散歩にもよく連れて行く様になった為、女房から、「父親としての自覚が少し出て来ましたネエ」と言われた。
 次女は、その影響か、芸術高校を卒業して、その後、音楽大学を卒業し、現在、プロのバイオリニストになっている。
 もう、作る予定はなかったのだが、家内の誘いもあって第3子が出来てしまった。
 私の母の話では、私も予想外の子どもで、4人兄弟の末っ子の私が母のお腹にいた時に、経済的な理由でどうしようかなあとかなり迷ったとのことである。その時、父が、「せっかくだから生んだら」と言い、それで私がかろうじてこの世に生まれて来た。正に父は、命の恩人であった。家に私の医学部合格の通知が来た時、私の一番上の兄の初めに発した言葉は、「お母さん、生んでて良かったなあ」であった。
 三人目は、男女どちらでも元気であれば良かったのだが、周りの反響は大きかった。私の両親の孫の9人の内、初めの1人だけが男であと残り8人が全て女で、又、女房の両親の孫にしても、この時、4人共全て女であった為、両家の両親の喜びは想像以上だった。
 人は何故子どもを作ろうとするのだろうか?子どもの為でなく自分たち(親)の為に作る様な気がしてならない。この住みにくい世界に生まれて来て良かったと思われることの出来る親にならないといけないと思う。いろいろ考えると難しくなるが、私に男の子が出来たことは確かであり、周りの人はこの子にいろんな夢を託すだろう。
 賢い子にしたい、性格のいい子にしたい、外国語が上手に話せる子にしたい、国際的感覚を持った子にしたい、芸術に秀でた子にしたい、運動神経の発達した子にしたい、他人と上手くやって行ける子にしたい、更には、若い時に苦労させたい、許されるなら何度でも若い時に失敗をさせたい・・・など。
 しかし、次の三点に極力注意すれば私の子どもの場合、いい子、更には、立派な社会人になれると思っている。
 1、期待を掛けないこと!
 2、親より偉くなれと言わないこと!
 3、お金と財産を子どもに残さないこと!
 
 この3点、今も、しっかりと守っています。

佐伯市の茶室「汲心亭(きゅうしんてい)」でお点前をしている息子と、それを見守っている私。
https://www.youtube.com/watch?v=OR4-S0kpbfw&t=477s(←息子が創り、海外で演奏してきた曲)  

(令和3年7月10日、少し修正して、再掲)

 

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