日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その6)


 「宮崎医科大学小児科勤務時代」

 昭和52年10月1日〜昭和53年9月30日まで、宮崎医科大学小児科勤務でした。診療が始まるのに合わせて、宮崎医科大学(今は、宮崎大学医学部となっていますが)に行った訳ですが、ここでの生活で、又、新たな価値観が生まれました。
 やっと一人前の給料をもらえて(文部教官助手)、身分も安定したので、取り敢えず、(私と家内と子どもの誕生日が、ちょうど120度ずつなる様に計算して)子どもを造ることにし、目出度く、そうなることが出来ました。帰る時が常に遅くて、長女の起きた顔を見ることが少なく、私に似て、よく眠ってばかりの子だなあと思っていましたが・・・(←ホントは、起きている時、見てなかったんですね!)。
 県病院時代、診療でとても忙しかったのですが、ここでは、診療以外のことで、質の違った感じの忙しさでした。趣味らしい趣味をするゆとりもなかったのですが、クリスマス会では、「手品」をいつも披露していました。
 私が一番下っ端で、いつの間にか、外来の検査室の係りになっていました。(←これが大変で・・・大学の検査室が、尿の沈渣や白血球の分類の検査をしないので・・・私が独りで、外来も病棟も、全てする感じになっていました。又、毎日の最後の検査室の片付けも、いつの間にか、私の仕事になっていましたが・・・?!)
 オープン当初は、教授・助教授・講師・助手4人のわずか7人の出発でした。大学は、研究・診療・教育とあり、朝早く起きて、近くの小学校に採血に(リサーチの為に)行ったり、医学生の講義の準備をしたり(学生への講義用のスライドの整理をしましたが・・・)、又、外来病棟での診療以外に学生の教育も、大変でした(←元々、教えることは大好きだったので、別に苦にはならず、むしろ、楽しんでいましたが・・・)。
 医学生の反応は想像以上で、1を教えれば10まで理解するって感じで、教授に付いて行って私が講義した後、いつも学生に囲まれて質問されていました。その質問も、鋭く、凄いなあといつも感心していましたが・・・病棟では、手取り足取りって感じで、医学生独り独りに、聴診・触診・打診を重点的に教えました。(←完全右脚ブロックでのⅡ音の分裂、腎の触診での浮遊感など、ミッチリと教え込んだつもりでしたが・・・)
 教室は、循環器が主体で、心臓カテーテルの検査を週2回し、第二外科と組んで、術後のフォローもしていました。
 又、新生児・未熟児を10カ月間も独りで持ち、朝早くから、夜は遅くまでベビー室にいることが多く・・・そして、幸いに死亡0の結果で、少し自信を持つことが出来る様になりました。
 そうこうしている内に、私の進むべき道は、研究でなく、救急を中心として臨床で、その為には、好きな教育を捨てなければいけないと思う様になりました。
 
*写真は、佐伯市で「たはら小児科医院」を開業している時に、「汲心亭」で撮ったものです。