日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

黒柳徹子・・・

 8月22日(月)、黒柳徹子さんが、テレビに出演していた。
 私は、彼女が、昭和62年4月5日の毎日新聞に書かれた以下の内容を何度も繰り返し読んできている。・・・→(その内容とは)
 もう30年近く、私は病気をしていない。特にこの12年間は、「徹子の部屋」という毎日のテレビ番組を持っていて、更にその前に、3年間の、これも毎日のナマ放送の司会をしていたから、合計で15年間、毎日テレビに出ていることになる。その間、ただの一日も病気で休んだことがないというのは、自分でも(他に、自慢出来ることなどないけれど、なかなかのものだ!)と思ったりしている。私は、30年前の「あの日」から病気をしなくなった。私は、NHKで、テレビの為の養成を受け、NHKの専属のテレビ女優として、この世界に入った。初めの頃は、「お前の個性は邪魔だ!」と言われて、ずいぶん悩んだ時期があった。個性が邪魔と言われても、若い私には、自分の個性がどういうものなのかもわからず、ただオロオロとスタジオの隅で過ごした。「もう、帰ってもいいです!」と降ろされて、一人だけ、スタジオの外の廊下で、同級生の俳優たちの終わるのを、本を読みながら、待っていたことも、しょっちゅうだった。その内、世の中が、突然、「個性の時代!」に入った。とたんに、みんな、「さあ、貴女の個性を出して下さい!」と言い、仕事は次から次と押し寄せた。私は、途方に暮れた(出しなさい、って言われてるものが何なのか、わからない!)。それでも、私は、皆の言う通りに、一生懸命にやった。寝る時間は、殆どなくなった。ある日、私は、「過労」と診断され、その日の内に入院ということになった。どの番組のディレクタ−も、「自分のだけは、休まないで」と言った。でも、お医者様は、「死ぬよ」と言った。私は、仕方なく、全部のテレビとラジオのレギュラ−番組を休んで入院した。先生が、テレビを部屋に入れて下さった。当時は、全ての番組がナマ放送だったから、私は、私がいないとどんなことになるかしら、と心配しながら自分の番組を見た。私が司会をしていた番組に、私の知らない女の人が出て来て言った。 「さあ、今日から、当分、黒柳さんの代わりに私がやります。さあ、始めましょう!」。それだけだった。私が、渥美清さんと夫婦をしているドラマでは、隣の奥さんの役の人が、渥美さんに聞いた。「奥さん、どうしました?」。渥美さんが、答える。「実家に行っています!」。そして、ドラマは、私なしに、どんどん進んで行った。他のものも、似たりよったりだった。私は、ブラウン管を見つめながら、考えた。「・・・実家に行ってます」−−−この言葉が、耳から離れなかった。1カ月後に、病院を出る時、私は、はっきりとした考えを持っていた。一つは、もう、絶対に病気をしないこと!。もう一つは、自分しかやれない仕事をなんとか見つけよう!。私は、先生に聞いた。「死ぬまで、病気をしないのは、どうやるんですか?」先生は、笑って、「生まれて、初めての質問だな」と言ってから、こう言った。「一つしかない。自分の好きなことだけ、やるんだな。自分が進んでやろうとする時には、どんなに疲れていても、寝れば、治る。いやだいやだと思いながらやっていると、疲れは寝ても取れない。やれるかい?」名医と言われる先生のお言葉だった。私は、そうしようと、心に決めた。あの1カ月は、私に、人と自分を比べることの愚かしさ、命の大切さ、いつも自分らしくあること、なども、しっかりと教えてくれた。人生の入り口にボンヤリ立っていた若い私には、こんな当たり前のことでも、早く教わったのは、有り難かった。あの退院の日に、私は、少し、大人になった。
 ・・・何度この内容を今まで読んだことか。30回、いや、そんなもんじゃないと思う。初心に帰る意味で、この内容を何度も読んでいる。
 今日の彼女の話だと・・・「徹子の部屋」は、36年間も続いていて、900回を超えている。生放送って感じで、意図的な編集は殆どないとのこと。それが条件で、「徹子の部屋」を始めている。出演したゲストの人で、誰一人として、今までキャンセルした例はないとのこと。(・・・←凄いなあ!)
 「1年間の休業」に付いて話されていた。・・・→そうだなあ、自分と同じだなあ。自分も、馬車馬って感じでそれまでがむしゃらに働いていた。その後、プツリと1年間、独りでの海外生活中心のプータロウの生活をした。あの1年間、下の二人の子どもがまだ、学校に行っていて、上の子どもは、(カイロプラクターになる為の)大学院に行く前で、お金がまだ沢山いる時で、それまでの蓄えを崩して行って、家内もかなり心細かったみたいだ・・・。
 黒柳徹子さんも言っていたなあ・・・→「周りから・・・1年間も休んだら、こんな時代、もう仕事ないよ・・・って感じで言われたけど、15年間、女優として一生懸命に働いて来た私だから、その実績が認めれないはずがないと思った。認められなければ、それだけのことで諦めるしかない・・・」と。
 そうだなあ、自分の場合は、もう、仕事をするのが嫌になっていたけど・・・しかし、不思議なことに、1年間、ブラブラした中で、又、リセット出来て・・・田舎で又自分なりに小児の救急医療をしようと思える様になって、今に至っているけど・・・。