日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その1)

 私は、「趣味人間」です。趣味が人を造り、人間関係を豊かにすると思っています。「天は、趣味の上に人を造り、趣味の下にも人を造る」と信じています。
 常に、趣味にして生きて、人生を深く味わう。仕事も、人と違った感じにして、趣味にしてしまう。そんな生き方で、私の人生が途中から来ています。たった一度のこの世の人生です。趣味に没頭していると、(人の悪口を言ったり、人をうらやんだり、いつまでも恨んだりする様な)くだらない事に関心を持たなくなり、自分に自信が持てて、個性的に生きて行くことが出来ます。
 いろんな考え方があるでしょうが、私は、そう信じ切っています。以下に、「趣味馬鹿人間」って感じで、趣味に生きて、趣味の中でこの世を終えようとしている(葬儀も、個性的に楽しく・・・?!)、変わり者のある人間の人生が記載されています。貴方のこれからの人生の参考に少しもならないと思いますが、馬鹿な奴だと思いながらも、最後まで読んで頂ければ幸いに存じます。

 「胎児期」
 私が母のお腹の中にいた時、私をこの世で生を授けるかどうか、両親共、経済的な理由で悩みましたが、父の「せっかくだから・・・」との一言で、かろうじて産まれて来ることになりました(→父は、私の命の恩人でした!)。
 2浪して、私の医学部合格通知が来た時、長兄が、母に言いました、「お母さん、産んどって、良かったなあ・・・」と。
 私は、男男女男の4人兄弟の末っ子で、父と男兄弟3人とも、血液型は全てB型。(父は、大分師範卒、長兄は経済学部卒→文学部卒、次兄は工学部大学院卒、私は医学部卒、皆B型なのでナルホドと思いますが・・・小学校、高校、高専で教鞭、そして、私も大学で文部教官だったこともあるので、やはり、蛙の子は蛙かな?!)

 「乳児期」
 母の母乳がよく出ていて、隣の家の子と仲良く2人で、母の母乳を飲んで大きくなりました。
 私は、いつ見ても、寝てばかりの子だったらしいのですが・・・←大人になっても、睡眠時間が少なくて済むのは、この時の寝貯めのお陰でしょうか?!

 「幼児期」
 大きな病気をすることなく、元気な子で(5月生まれ)、音楽が流れると直ぐに体を動かして踊っていたそうですが(私は、よく覚えていませんが・・・)。幼稚園には通いませんでしたが、家の周りには、何処へ行っても、子どもがうじゃうじゃいました(←バングラデシュダッカに行った時の光景の様に)。

 「小学校時代」
 趣味は、将棋、バイオリン、ギター、相撲、逆立ち(今も、少し出来ます・・・←しようとすると、家内がやめて!と言うので、部屋が狭いこともあって、していませんが・・・?!)。
 音感がいいからとの理由で、将来、音楽学校に行くように(男性の)音楽の先生から母が勧められていました・・・バイオリンもギターも、少しかじりましたが、不完全燃焼でした。私の次女がバイオリン、長男がギターを現在していることを考えると、私のDNAを引き継いているのでしょうか・・・?!
 大相撲をラジオで聴いたり(←当時は、まだ、テレビがあまり普及していませんでした)、テレビを他の所で見たりしていました。相撲が割と強くて、しばしば、友達と相撲を取っていました。この時、しっかりと腰を鍛えていたせいでしょうか、外来で長い間イスに座っていても、腰が痛くなること、ありませんが・・・?!
 押し入れにナイフで私好みに刻んだ棒を30本近く持っていて、学校が終わると、何処に行くにも、その中から一番気に入ったのを1本だけ選んで、いつも持ち歩いていました。
 クモを飼うのが大好きでしたが、アリも飼っていました。ニワトリ、メジロ、ネコ、ウサギ、(それ以前は、タヌキ、イヌ、ヤギも)飼っていました。
 寝る前に、枕元で、いつも世界地図を10分以上見て、寝ていました。いつかは、世界に出てやるぞって感じで、イメージを膨らませて毎晩見ていました。世界の国と首都が当時、全部言えて、学校で、世界地図を空で書いたことがあり、その時、担任が驚いていましたが・・・。(長女が、ニューヨークで開業して、カイロプラクターとして頑張っていますが、これも、私のDNAが成せる技?!)
 金魚の飼い方から、軍隊の階級まで、兎に角、何でも覚えることが好きでした。
 父(←当時既に、小学校校長でしたが)の仕事の関係で、蒲江(かまえ)小学校→西上浦(にしかみうら)小学校→佐伯(さいき)小学校と、3校も津がったことで、それなりのいい体験をしました。
 小学校2年生の時、蒲江小学校から西上浦小学校に転校し、その頃から吃音に悩み出し、中学、高校の時、更に、予備校とエスカレートして行き、人前で読んだり話したりするのが、最も厭なことになりました。それがなければ、どんなことにも耐えられると思う様になりました。全く精神的な要因で、大学に合格してからも続き、次第に軽減してきましたが、軽いのは、開業するまでありました。
 今は、全く逆になっていて、兎に角、喋りたくて仕方ありませんが・・・。

*写真は、佐伯市の夏の花火大会の前に、子ども達と太鼓を打っている私です(当時は、いつも大きな太鼓を打っていました)。