日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

おじいちゃんのその一言に私は思わず泣いてしまった。

 昭和53年12月13日、宮崎県延岡市の病院(宮崎県立延岡病院)の小児科から、生後15日目になるチアノーゼを呈するベビー(男児)が、航空自衛隊のヘリコプターで搬送されてきた。宮崎医科大学のグラウンドの真中に下り、私と医局長と婦長は、アンビューを持って駆け寄り、直ぐに小児病棟に運んだ。酸素が不足すると、すぐに真っ黒になった。大きな臍帯ヘルニア(内臓脱出症)があり、心臓に雑音が聴かれたが、それ以外に、外見上の奇形は見られなかった。顔付きは、両親に似て、かわいい顔をしていた。翌日の新聞を見ると、大血管転位の疑いで、ヘリコプターで宮医大に送られたと載っていた。
 私が主治医であったが、方針がなかなか決まらなかった。まず病名がはっきりしなかった。何によるチアノーゼだろうか?
 胸部レントゲン像では、一見、心臓腫瘍を思わせたが、超音波で否定され、大血管転位も否定された。縦隔腫瘍の疑いで断層撮影するもはっきりせず、心電図で異常があり、心雑音がある為に、先天性心疾患は必ずあると思い、心臓血管造影・心臓カテーテル検査をした。その結果、心臓が何かによって右に押しやられていることがわかり、心外膜炎も疑われた。しかし、それ以上の診断の進歩はなく、一日一日と一般状態が悪くなってきており、手術を急ぐ必要があった。
 私は朝早く、古賀保範先生(当時助教授、その後、教授となり、病院長にもなられたが、残念なことに、故人となられた)にお願いに行った。古賀先生は、何に対しても熱心で、いつも朝早く、又、夜遅くまで病棟にいることで、その教室の医局員から尊敬されていた。「一応、教授の了解がいるので・・・」ということで教授の来るのを待った。OKということで、今度は、麻酔の教授の所に、古賀先生と一緒にお願いに行った。そこでもOKで、その日のうちに、古賀先生が中心になって緊急手術が施行された。
 術前診断は、縦隔腫瘍であったが、開胸してみると、心臓を被っている心外膜や横隔膜の一部が欠損し、そこに肝臓が入り込んで心臓を右上に圧迫していた。つまり、縦隔腫瘍ではなく、診断は、横隔膜ヘルニアで、その中でも非常に珍しいMorgagni孔ヘルニアであった。
 それからも、又、大変であった。レスピレーターを常につけていないといけない状態で、いろいろ試みるも、どうしても抜管できなかった。途中で無気肺にもなり、心不全の状態は、改善しなかった。
 私は、毎日夕方、家族(両親とその祖父母の6人)にていねいに状況を説明してきた。この家族は、我々にとっては、非常に医療がしにくい存在であり、検査するにしてもすぐにOKということはなく、いつも6人でしばらくの間、よく相談してから了解の返事をもらっていた。特に、父方の72歳の祖父は、ある宗教を信じているようで、自分にとってはその中でも一番威圧的に感じられていた。
 医局では、「あの子はもう望みないなあ。せっかく手術までもっていけたけど、駄目だ。一体心臓はどうなっているのかなあ。ゼク(病理解剖)してみたいなあ。しかし、あのおじいちゃんは、難しいなあ。あのおじいちゃんがOKだったら、ゼクはできるかもしれない」と言う人がいた。
 年末年始、夕食と風呂以外は、家に帰ることなく、一日中、私は外科の集中管理室におり、夜は3時過ぎに医局で寝、それこそ命賭けで、この一人の子ども為によく観察し、処置をし、治療をした。
 1月1日に、古賀先生が来て「田原先生、本当にごくろうさん」と言ってもらえた。又、第二外科の他の先生方からも「田原先生には、わしら頭があがらんぞ」と言ってもらえた。両親の祖母からも、「先生の体が心配で・・・」と言ってもらえた。
 1月2日に、例のおじいちゃんが初めて、はっきりと私に感謝の言葉を掛けてくれた。私が、「いや、仕事ですから」というと、涙声で、「仕事ということだけで、これだけのことはできません」と言ってもらえた。
 つまり、私は、年末年始に、家族の人がいつ見に来ても、その子どもの傍にいたのである。どの人よりも、私はその子どもと一緒にいたのである。しかし、努力の甲斐なく心不全の状態はとれず、昭和53年12月19日に手術をしてから、約1カ月後の昭和54年1月21日、死亡した。
 大学病院では、死亡した場合、必ず、病理解剖を家族にお願いするのであるが、私は多分駄目だと思っていた。なぜなら、手術をしているし、病名もある程度つけられているし、状態がどんどん悪化して行っても、家族が最後まで一生懸命に望みを持っていたから。
 どうして解剖が必要かを30分以上説明し、学生のする系統解剖とは、はっきり違うことを強調した。
 しばらく家族の話し合いがあったあと、例のおじいちゃんが、「先生には、一生懸命にしていただき深く感謝しています。亡くなった子どもも充分に満足していると思います。何のお礼もできませんが、この子の解剖でお礼に換えさせていただきます」と言った。その時、私は、思わず家族の前で泣いてしまった。何故、涙が出たのか今でもわからないが、声を出して泣いてしまった。直ぐに、当直室に行った。冷静な自分に戻るのに、しばらくの時間を要した。
 解剖してみると、心臓は、心房中隔欠損、心室中隔欠損、Criss cross heartで、左上大静脈遺残があった。
 解剖後、見送る時に、やさしそうな母親が、「元気になったら、子どもを抱いて、先生のところに必ずお礼に行こうと主人と話していました」と言ってもらえた。

*このことがあって、私は、年末年始(12月29日〜1月3日)の小児医療を毎年積極的にしようと決め、翌年の昭和54年12月29日〜1月3日、自分なりに佐伯市の救急病院で小児医療をしました。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20090104/1