日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その10)

 「大川→大分勤務医時代」

 開業生活を通じて・・・→「モノや金や地位や名誉に執着する愚かさ、他人と比べる無意味さ、他人を羨むことの醜さ、見栄を張らずに素直に生きれる気楽さ、自分のしたいことが出来ている満足感、他人の為に頑張れる充実感、継続して打ち込める幸福感、生かされていることに対しての感謝の気持ち、かけがいのない自分の存在、多くの趣味、いろんなジャンルでの多くの友、それも、全く同じ感覚で付き合ってくれる友、それが、今から生きて行く上で、私にとっては、お金に替えられない貴重な財産となりました・・・」。
 「たはら小児科医院」を閉院して(←開院よりも閉院の方が大変でしたが・・・)、大川のT病院に就職するまで、(長女と長男と一緒に)佐伯市姉妹都市のオーストラリアのグラッドストーン市に行ったり、佐伯市のアチコチで講演したり、演奏活動をしたりしました(最後の4年間、佐伯市教育委員会不登校の顧問になっていましたが・・・)。
 平成11年10月1日〜平成14年4月まで、福岡県大川市にあるT病院に勤務して、又そこで、新たな世界を築いて行きました。
 関東のT大系の治療の仕方が、九大系とは若干違っていて(特に、ステロイド剤の使用の仕方が控えめでした・・・)、勉強になりました。又、柳川市にある「柳川療育センター」に当直にしばしば行って、そこでの重症心身障がい児に接して、今まで経験しなかったことをいろいろ知って、勉強になりました。
 T大卒の人が(ベテランの元医局長を含めて)4人いました。驚いたことは、4人共、「きつい・・・」と言う言葉が全く出なかったことです。経験不足の若い先生も、与えられたものを何とかこなして行ける姿に、やはり、T大卒の人は凄いなあと思いました。私の時間外統計ノートにも、快く記載して頂きました。その内の(コンピューターが得意な)人から、エクセルの使い方を教わりました。
 しばらくして、(医局長をしていた人に)部長のポストを譲って、医長となりました(が、私のT病院での机は、そこを退職するまで、部長室でした・・・)。
 家族と初めて別れての独身生活で、年に4回前後しか家族に会えず、失ったものも確かにありましたが・・・(家内は、愚痴一つ言いませんでした・・・)。
 この流れでしばらく行きそうだったのですが、私が医長になって間もなく、T大の都合で、派遣は出来ないと言うことになりました。(と言うことは、最後は、又、私独りにならざるを得ない・・・?!)
 先々、10人以上で、T大から小児科医を派遣して頂いて、(私が昔から抱いて佐伯市で実現出来なかった夢)「(小さな子から中学生まで診る)救急母子センター」を、大川の地で創設するって感じにまでなっていたのですが・・・思わぬ方向に展開してしまいました。
 T大小児科医局からは、その時、九州には、この大川市のT病院と大分市のT(H)の2カ所しか、派遣していませんでした。大分市のT(H)病院も、小児科医が1人だけとなり、既に、困っていました。
 このまま大川に残って、又独りで頑張るべきか、大分市のT(H)へのオファーを受けて、そこに就職するべきか、かなり迷いました。佐伯市に住む私の年老いた両親の意見を尊重して、大分市にあるT(H)病院に副部長で就職することになりました。

*写真は、T(H)勤務時、別府市になるAPU(アジア太平洋大学)の学園祭で、30分間、独りで演奏している私です。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070107/2