日本の心・さいき

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とりとめのない話

 ぼくは、大きくなったら小学校の先生になるんだ。お金をいっぱいかせいで、お父さんやお母さんに、三分の二ぐらいおくってやるのだ。今、お父さんやお母さんは、くるしいけど、十年後にはらくにしてやるのだ。テレビも、せんぷうきも、いろいろな物を買ってやるのだ。・・・ぼくは大きくなったら、さけもたばこものまないで、お金をためるのだ。すこしでもせつやくをして、ちょ金をするのだ。一おく円ぐらいためて、てっきんこんくりいとの家を建てるのだ。こんなぼろ家ではないぞ。・・・十年後には、大変なお金持ちになると思う。お父さんがかせぐ、お兄さんがかせぐ、兄さんがかせぐ、ぼくがかせぐ、そして、お母さんがかせぐ。毎月、十万円にはなるだろう。毎月、ぼうなすみたいなものだ。・・・でも、お金をかせぐには、頭がよくなければだめだ。頭がよくなるのには、勉強が第一だ。・・・勉強をするのは、大変いいことだと知っている。おおきくなった時、大へんらくになるには勉強だ。勉強は、大変よい事だと知っていてもしない、すこしはするがあんまりしない。それは、だいいからだ。お兄さんたちは、小学校の時に勉強をしとけばよかったなーと言っている。勉強するのは、たいへよい事だと知っていてもあんまりしない。だいいからだ。・・・お兄さんや兄さんからげんこつを大へんうたれる。それで、大へんなく日が多くなった。お兄さんや兄さんたちは、自分の方が悪くてもぼうりょくをふるう。何年か先になったら、お兄さんや、兄さんは、じいさんだ。その時には、うってうってうつんだ。そして、あんあんなかすのだ。そしたら、むねがスーとするだろう。とても楽しみがいい。だけど、今は苦しい。・・・ぼくが一番ねがっている事は、どもらないことだ。勉強時間など、手はあげるが、ひやひやしてあげる。どもるのをきかれたくないからだ。話し合いの時などこれを言おうかな、どもりそうだからほかのことを言おう、というときが多い。いいたいけど、どもるからはずかしい。だから言わないというのが多い。S君も、ぼくににてどもる。W君やH君などは、げらげらわらう。どもるのをわらうのはぼくはきらいだ。ぼくもそんな事があるからだ。S君などは、かわいそうだ。ぼくも自分でかわいそうだと思う。どもりがなおったら、ほんとうにいいなー。思った事はすぐにいえるし、どもらない人がうらやましい。

昭和35年1月11日(月)晴(10歳)
 ぼくは、前おった西上浦小学校のほうがよいと思った。S小学校は、勉強はできるかもしれないけど、おこないは、大へんわるい。一番わるいのは、そうじだ。Y君やT君やH君などは、先生がおらないとそうじをなまける。なまけるどころか、人のじゃまをする。一番目についたのは、Y君がS君のせなかにのっていることだ。S君が、そうじをしていいたら、せなかにのって、「あっちへ行け、こっちへ行け」とY君がいったら、S君がそのとおりにする。S君は、Y君にかなわないからだろう。勉強はできてもおこないのわるいのは、大きらいだ。
昭和35年3月4日(金)曇(10歳)
 四時間目の理科の時間に、電池の事をした。電池のちょくれつつなぎと、へいれつつなぎがどうして二つに分けているのだろうか、分からなくて、先生に聞いてもぼくの考えている事を言っていない。休み時間など、おしえてもらったが、まだ、まだわからない。先生から理科の事が、くわしくかいている本をかしてもらい、「ここを読んで」と言われた。よんだけどわからない。一番上のお兄さんに聞いて、やっとの事でわかり、答えがかんたんなので、ばかばかしかった。

 以上は私の小学校4年生の時の日記の一部である。当時は食べる物がなくて、おなかをすかして泣いていた大きな子もいた。いじめは昔もひどかった。私自身も精神的にはしばしばいじめられたが、相撲が強かった為か、二人の兄以外から物理的にいじめられることはさほど多くなかった。鶴谷中学の時に一人で城山に登っていたら、全く知らない二人組から突然何回もなぐられた(自分の担任がその生徒をなぐったという理由で)。その時、春休みであった為か、学校もそのことで全くとりあってくれなかった。兄二人は、「校長の子かと思っていばっちょる」ということでよくいじめられていた。それでも、そのいじめた人が鶴城高校に入学する時、「保証人になって欲しい」とその父親が深々と頭を下げてきていた。つまり、いじめがあっても、親が公に口に出すことはまずなかったし、多くの場合は子ども同士で解決していた。大家族で、兄弟が多く、多くの人が貧乏で、その為子ども達は自然を大いに愛し、一日中よく遊んでいた。その上、親は、今ほど教育熱心でなかった。お金持ちになりたい、親孝行したい、いじめられたくない、勉強はしたくないなど、全く今の子どもの心境と一緒である。自分の場合、小さい時から欲のかたまりみたいなもので、夢が一杯あった。今この日記を読むと、感無量となる。その時のいろんな思いが今の自分の基礎を作ったと思う。(20年以上前に、西田病院月報に載せた内容のままです)