日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

暇つぶしの話(その10)

 今からどんどん繁盛して行くだろうと予想される会社、今からどんどんと衰えて行くだろうと予想される会社、どこが分かれ目になるのでしょうか・・・?
 (懇意にしている)ある公認会計士が私に次の様に言ったことがありますが・・・→「仕事を受けるかどうかは、トップの人とじっくり話して、後は、トイレを必ず見ます。トップと一番下を見れば、後は、その間にいますから・・・。」と。で、トップの考えが立派で、トイレがちゃんと掃除されていて、初めて、請け負うことを考えるとのことでしたが・・・。
 今の時代、現場の意見を無視して、「トップダウン方式」で経営しても・・・→その時、トップが部下から尊敬され、強いカリスマ性がある時は、部下はそれなりに付いて行きますが、それがないと、いくらトップがガンガン言っても、部下は、長い目で見れば、次第に離れて行きますね。
 会社が大世帯だと、トップが末端まで一人一人把握するのは、土台無理なことです。トップがよく把握出来るのは、せいぜい、側近の10人程度ですね(10人でも多いのでは?せいぜい5人まで?)。
 新しい市長が皆の選挙で選ばれると、昔だと、三役の助役・収入役・教育長が決まっていましたが・・・今は、収入役はなく、助役の代わりに副市長となっていますが・・・それと同じ感じで、行政上、上の少ないポストの人選は、最も大切ですね。
 その大切な上のポストにふさわしい人をトップがしっかりと公平に選べるかどうかですね。そして、それぞれの領域に関する直属の部下をトップが信じて任せ、何かあれば、最後は、自分が責任を取るって感じの(田中角栄みたいな)スタイルにすれば、トップが命って感じで、一生懸命に頑張るかも知れませんね。
 今の官僚の様に、各省の大臣がコロコロと代わり、課長→部長→局長→事務次官と、ほぼ、年齢順に(T大中心の)ヒエラルキーが出来たガチガチの官僚組織だと、歳を取れば取る程、後のポストのことを考えて、不安が一杯で、思い切ったことが出来なくなりますね。末端の現場の実態を充分に把握する何て、構造上、出來ませんね。
 昔(私が研修医の時)、県病院に勤務していた時、病院近くの角店で、1カ月に1回の頻度で、(いつも部長の払いで・・・おでんが多かった感じですが?)夕食を摂りながら、小児科のスタッフ(5〜6人)が皆集まって、少しアルコールが入った状態で、懇談していました。これが、今考えると、超良かったですね。(30年程、そこで小児科部長をしている)トップが、部下をどう思っているのかがよく理解出来ましたし、適切なアドバイスを素直に受けることが出来ました。
 部長(当時、副院長)は、県下の小児救急の不備をいつも嘆いていました。「赤ちゃんは、夜作られる、小児科医も、夜作られる。」って部長の言葉、今も、しっかりと覚えていますが・・・。
 郷里の救急病院に就職した時、私の意見が通って、「新生児・未熟児センター」が出来ました。私も、若かったので・・・→ナースで、小児科は、任せられないと思うと、院長の所に行って、小児科のスタッフからはずしてもらっていました。そんな感じで、各科からの(ドクターからクレームの付いた)ナースを院長が全て院長の傍らで責任もって教育していました。
 ある時、「もう、かなりしっかりしてきたから、どうでしょうか?」と院長から尋ねられた時、私は、「小児科では、あのナースには、子どもを任せられません、ダメです!」と強い口調で言うと、「そうか・・・」と院長が言われて、院長の方が私に常に合わせてくれていました。
 この病院では、とても忙しかったのですが、産婦人科の院長と理事長が、私を絶対的に信じてくれ、又、私の部下も、私に付いて来てくれて、仕事がし易かったですね。(→それで、開業するまで、10年半もいて、独り小児科医では、8年半も頑張れましたが・・・)
 福岡県の病院に就職した時にも、ここでも、上の人の在り方を学びました。
 理事長はとても忙しい人で、何カ所も理事長を兼ねていて、年に、1〜2回程、私が勤務する病院に来ていました。その時、必ず、会食をしてくれて、「困った事はないか?遠慮せずに言ってくれ、ここでは言いにくい事でも・・・」とよく言われていました。
 1月1日のちょうど正午に、私が診察をしていると、予告なしに小児科外来にヒョッと来て(3分もいなかったと思われますが)「ご苦労様です。」と頭を下げて言われました。この時の理事長の姿を見て、益々やる気が出てきたのを覚えています。
 現場の意見を無視して、部下の気持ちになれずに、部下を無視して、トップだけで決めて突っ走ると、いつかは、亀裂が起きてしまう気がしてなりません。

*私が院長職の時、家族持ちの職員には、家族旅行を、独身の職員には、海外旅行をして頂きました。写真は、たはら小児科医院のナース二人がアメリカに行って、1994年2月に撮ったものです。開業の8年半余、私は、遠くに行くことなく、毎日(毎晩)、欠かさず仕事をしていました。ある人から言われました、「先生は、人を集める能力はあるけど、経営能力は素人。」と。