卒後、直ぐに、(1976年、昭和51年6月1日から、今から42年前のことですが)宮崎県立宮崎病院小児科に勤務しました。研修医の給料は、月10万円で、それを、事務側で、1年目は8万円(税込み)、2年目は、12万円(税込み)としていました。
確定申告をする時、年間の収入が100万にも満たなかったので、担当の人が驚いていました。そんな中で、その年の4月18日に結婚した私たち夫婦は、家内の持参金の100万円を少しずつ削って、ささやかな生活を続けました。
兎に角、県病院の小児科は、メチャクチャ忙しい病院で、殆ど毎日、夕方から小児の急患があり、入院もしばしばありました。と言うのは、周辺の医療機関で、小児の救急や入院を積極的にしている所がなかったからです。時間外に、部下が判断に困って電話すると、部長は、アルコールが入っていても、直ぐに飛んで来てくれていました。とても有難かったです。
1カ月を過ぎると、救急の当番医をし(初めは、しばしば、上司を呼んでいましたが)、3カ月過ぎると、一般入院以外に、新生児・未熟児を受け持っていました。新生児・未熟児は、重症度に関係ない感じで、5人で、順番に受け持っていました。
朝は、部長が8時から診察を始めるので、それまでに、病棟を終える様に、新婚の私でしたが、早くから小児科病棟に来ていました。又、帰る前も、病棟に足を運び、急性疾患では、しばしば、病棟に行って、経過を見ていました。
そんな頑張りに、給料日、部長が、研修医の私とS君に、月給袋をから、1万円ずつ、くれていました。又、月1回、病院の近くの角店で、おでんを部長からごちそうになりながら、いろんな話をお互いにしていました。
今思えば、この角店トークが、真の(腹を割っての)教育だったと思っています。アルコールが入っていたので、お互い、言いたいことを言っていましたし、部長も、快く研修医の意見を聴いてくれていました。
就職した時に、小児科部長(副院長)から初めに言われた言葉、今でも、しっかりと覚えています・・・→「小児科医に休みはない。小児科医は、お金儲けは出来ない。お金儲けをしたいのなら、早めに別の科に進みなさい。小児は、急変するから、朝来たら気になる患者は直ぐ診て、昼も、気になれば、病棟に足を運び、夕方も診て、気になれば、帰る直前にも、もう1回、診に行きなさい。」と。
部長の回診は、週3回ありました。その時、ほんのちょっとしか言わず、その一言が、実に大きな意味を持っていました。
検査を沢山することを嫌い(部長自身が国保の審査をしていることもあり)、薬を沢山出すことを嫌い、自分の目を信じよと言われ、問診を大切にし、視診聴診触診打診の理学的診断をとても大切にしていました(打診と触診は、神業って言う人が多かったです!)。その精神は、今も、私の基本となっています。
部長は、早朝に、よく、ピアノを弾いていました。部長に子どもはいなかったのですが、研修医は、しばしば家に招かれて、病棟の子ども達からは、回診のおじちゃんとして慕われていました。
*写真は、私の(1ヶ月を要して)作成した「小児科研修の手引き」で、その1〜その40まであり、県病院で研修する研修医が、自分の様に困らない様にと思って、作成しました。作成当時、子どもがまだいなかったので、兄の子どもの写真を借りました(その子ども、今、東京で、産婦人科医として、開業して、活躍しています)。