「救急病院西田病院時代」
昭和55年4月1日(正確には3月から)〜平成2年11月10日まで、(私の故郷)佐伯市の中心にある救急病院で働きました。その救急病院、民間ですが、私が就職した時から既に(24時間365日の)救急医慮中心の医療を50年近くしていました。(産婦人科で有名な病院でしたが、ずっと小児科医不在で、私が就職した時に、小児科と脳神経外科が新設されました。)
当時の大分県では、新生児・未熟児医療がとても遅れていました。特に、県南では・・・→それで、私の案で、それまでの「ベビールーム」を改築して、「新生児・未熟児センター」を創設してもらいました。
病院側は、私の要求通りに(設計まで)何でもしてくれる感じで・・・とても忙しい病院でしたが、(各科の医師の意見が非常に強く)私なりの医療が難なく出来る仕事のし易い病院でした。
ここで、大きな誤算をしました。あまりにも独りで抱え込んでしまったのです。小児の一般入院は、3ベッド前後で、毎日、救急をすることで入院を少なくし、後は、「新生児・未熟児医療」にエネルギーを注ごうと当初思っていました。
しかし、実際して行く中で、そう言う訳にも行かず、次第に小児科一般の時間外入院が多くなり、毎日当直って感じの医療になってしまいました。
私自身が救急医療が好きだったので、それに、若かったので、何とかそれを乗り切れたのでしょうが・・・睡眠不足で、過労死寸前の状態で・・・→「笑わない」「話さない」「目を見ない」「直ぐ怒る」って感じのイメージに思われていた様でした・・・?!
佐伯市で唯一小児科専門医の開業の先生が病気でしばらく閉院となり、その時には、正に、人間の限界に挑戦って感じでした。病院側も、「ひょっとしたら、このまま働き過ぎて、倒れるのでは・・・」と心配していた様でしたが・・・(←私は、胎児期だけでなく、ここでも生き延びて、不死身でした・・?!)。
まる3カ年して、月に1回、M医大から派遣して頂きました。その時は、慢性睡眠不足解消の為に、ずっと1日中、寝ていました。その内、月2回来てもらえる様になり、そうこうしている内に、水曜日の午後(←病院は、当時は、水曜日の午後休みで、土曜日の午後普通診療でしたが・・・)にも、O医大から来てもらえるようになりました。、
運動もせず、朝から晩まで、仕事仕事でしたが、水曜日の午後に、(1カ月に1回、男性職員ばかりの院内ゴルフ同好会による大会があって)ゴルフを少し齧(かじ)りましたが、上手になれませんでした。(シングルの院長から、トラック一杯打たないと上手になれないと言われていました。院長は、とても早起きで、手術も上手、唄も上手、ゴルフも上手って感じで、完全なる趣味人間でした・・・←私も、そんな生き方に憧れていましたが、当時の私は、院長の足元にも及びませんでした・・・)。
私をよく見守ってくれた先代の理事長(産婦人科医)が亡くなり、その後、理事長の御子息の(ゴルフの好きな)院長(産婦人科医)が亡くなりました。
そんな中で、まる8年経過して、M医大から若い先生を派遣してもらいました。私の給与は変化ない状態で、小児科医2人になった訳で・・・少し、世界観が変わりました。
ここから、趣味人間に変身したのです。
ゴルフだけでなく、いろいろ挑戦しました。サイクリングや散歩や買物に、子どもと一緒によく行きました。バドミントン、卓球、真向法、縄跳びにも、少しだけ凝りました。深夜面白いことはないだろうかと考えて、星座にも凝りました。カラオケに凝りました。2泊で、家族旅行も、よくしました(←これが、結構疲れましたが・・・?!)。
しかし、二人体制がまる2年間で終わり、その後、半年間、再び独りですることとなり、已む無く、勤務医での体力の限界を感じて突如開業しました。
*写真は、西田病院勤務中に、医学生の為に医師国家試験を10年間分析して作成した「医師国家試験小児科の手引き」です。昭和59年12月31日に第4版発行(限定850冊、非売品)
又、昭和62年3月19日に、「続・為になるかも知れない本」を発行(限定1.000冊、非売品)。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20080312/2(10年間で、小児科一般入院8956名・・・新生児・未熟児医療がこれ以上に、大変でした。)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070107/8.956_