日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

続々・ヒマだから・・・

 佐伯市の救急病院で、(独り小児科医で)外来も入院も多く、(県南のベビーを集めて)「新生児・未熟児センター」まであって、(朝の3時〜6時の間、毎日の様に起こされて)・・・→完全に疲れ果てていました。
 そこでの勤務がまる8年間経過した時、大学から二年間だけ小児科医を派遣して頂きました。その時、(これが千歳一隅のチャンスだと考えて)「ヒマになった時間」を趣味に当てることにしました。
 生きる上で、「趣味」には2つ必要と考え、精神的なものには「茶道」を、体力的なものには「ヨーガ」としました。
 病院勤務の時は、趣味は、そこまででしたが、その二年後には、大学からの派遣が中止となり、他の大学の援助も得られない状態となって、体力的な面で(中止となって半年後に突如、已む無く)開業しました。
 開業してからは、好きな趣味は忙しくて無理だろうと考えていましたが・・・→全く逆でした。開業時代は、勤務医時代よりも(お産関係の新生児・未熟児がないこともあり)明らかにヒマだったのです。
 そこで、趣味の世界の面白さを知ってしまった私は、パンドラの箱が開けられた感じになって、「完全なる趣味人間」になってしまいました。
 「茶道」からは、「篠笛」→「謡曲」→「仕舞」→「水墨画」→「書道」へと広がり、「ヨーガ」からは、「和太鼓」→「太極拳」→「太極剣」となりました。「たはら小児科月報」も、毎月、14日に一度も遅れることなく発行出来ました(104号まで)。
 又、院長室にも有線を引いて、NHKの語学講座を空いた時間に聞き、「パソコン」にも凝りました。
 全ては、ヒマだったから・・・(朝、7時半から診療をしていましたが、毎日、昼寝をしていました・・・18:00〜20:00は、完全に趣味の時間って感じでしたが・・・)!
 アインシュタインについて書かれた本の中に・・・→「・・・彼がやっと得た仕事というのは、特許局に申請される書類を点検するという役目だった。年俸3500フラン、やっと生活できるほどの薄給であったが、彼は十分に満足し・・・結婚した・・・22歳の時であった(このわずか4年後に、特殊相対性理論を発見)。彼は自分に与えられた仕事を決して無意味とも、研究の妨げになるとも思わなかった。彼は数学を専攻している友人に対して特許局への就職を勧め、この仕事が如何に素晴らしいか、こう手紙に書いている。・・・うまくすれば、君を特許局の職員の中に押し込むことが出来るかも知れません。そうしたら君は来てくれますか?考えてもみたまえ、8時間労働のほかに毎日ヒマな時間が8時間残り、そのうえ日曜日があるんですよ。←この手紙、自分の理論が大反響を呼び起こしている最中の出来事。」と。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20101010/1