日本の心・さいき

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三別抄・・・

 9月27日(日)のNHKのETV特集での「日本と朝鮮半島20000年」の第6回で、「三別抄」のことが述べられていた。
 朝鮮半島には、かって高句麗百済(日本との交流がとても深く、白村江の戦いでは日本から兵を送り、その後、百済から日本に沢山の人が渡来している)・新羅とあり、その後、新羅が統一した後に、高麗が誕生する。が、高麗時代には、蒙古の力が強く、そんな蒙古に高麗は強く抵抗して行くが、とうとう屈してしまう。そして、蒙古・高麗軍として、日本を襲撃することになる。
 蒙古の勢いは、第5代のクビライの時に最も強く、その特徴は、征服した所の力を自分の力として上手に利用することにあった。
 が、高麗の中で最後まで抵抗した組織に「三別抄」があった。13世紀後半、日本を震撼させた蒙古襲来。その3年前に朝鮮半島から救援を求める謎の国書が届いていて、送り主は、高麗王朝に反旗を翻し蒙古に徹底抗戦を唱えた軍事集団、三別抄であった。三別抄は崔氏武臣政権下で組織された軍隊で、左別抄・右別抄・神義軍(モンゴル逃還者の軍隊)から成り立っていた。
 三別抄は、鎌倉幕府に応援を求めたのだ。しかし、当時の鎌倉幕府には、そんなゆとりはなかった(幕府は内政をするので、海外のことは朝廷にって感じになっていた)。
 近年の研究で三別抄の激しい抵抗が日本攻撃を大幅に遅らせるなど、蒙古軍の敗因のひとつになったことがわかってきている。(三別抄が済州島で滅びるまで、蒙古もこれにかなり手こずって、沢山の兵力を使っている。)
 第1回目の蒙古襲来は、もっと早くする予定であった。しかし、高麗の王が死去し、軍備もちゃんと整わないまま決行となっている。それで、襲来1日にして武器を使い果たす感じになり、直ぐに引き返している。
 第2回目の蒙古襲来の時には、鎌倉幕府もそれなりに準備をし、又、台風の襲来もあって、日本が難を逃れることが出来ている。
 これ以後に、日本に「神国思想」が生まれ、又、日元文化交流が盛んとなっている。
 蒙古は第3回目の日本への襲来を前もって計画していたが、南宗を征服した後にベトナム(大越)まで足を伸ばしていて、それで兵力を使い過ぎ、やむなく、その後の日本襲撃を断念したのである。(蒙古は、ミャンマーやジャワにも出兵していた。1294年にクビライが死亡して、勢いが弱くなって行った。)
 当時の日本国は、当然、世界の流れの影響を受けていた。もしも、三別抄の願いを鎌倉幕府がしっかりと受け止めていれば、蒙古の襲来も、初めからなくて、別の流れになり、第二次世界大戦にも加わることなく、一億玉砕って感じの思想も生まれなかったかも知れない・・・?!