日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

10年(×N)前の姿はどうだったかな・・・?!

 今からちょうど10年前の平成11年(1999)9月、「(19床の)たはら小児科医院」を閉院して、10月1日からの新しい職場(大川市)に就職するする為の準備をしていた。結婚後に初めて単身赴任生活をするハメになり、1人(家具の町)大川に残ることになり、別れ際に家内がバスの中から手を真剣に振っていて、、少し涙ぐんで見送ってくれた情景が今でも思い出される。
 更に10年前の平成元年(1989)9月頃は、どうしていたのか?佐伯市の救急病院に昭和55年4月から就職していて、もう、宮医大から派遣してもらえないし、大分医大からも派遣してもらえないし、母校の鹿大に頼んでも出来ないと言われ、(まだ、全く開業のことなど考えてなく)途方にくれていた時期だった。2年間だけ有難く宮医大から常勤医を1人派遣してもらっていたが、再び、平成2年の春からは自分だけの1人常勤医となり、その年の11月にやむなく開業してしまった。
 新しい研修制度が始まって、大学の医局からの派遣、当時よりももっと厳しくなっている。今思えば、大分県と宮崎県の県境に位置する佐伯市で、それまでちゃんと毎日小児の救急医療が出来てきたこと自体が特殊だったのかも知れない。
 更に10年前の昭和54年(1979)9月頃は、宮医大に在籍していて、朝から晩まで、殆ど休みない感じで仕事をしていた。この時、(もう来年でまる4年を迎えるので)研究生活に入らないといけないなあと思っていた。(で、しばらく考えた後、研究でなく、故郷に帰って新生児を含む小児の救急を選んだのだが)
 更に10年前の昭和44年(1969)年9月頃は、2浪していた時で、福岡市の修猷館高校の予備校修猷学館に通っていた。0.5点差で現役の時に一期校の医学部に落ちて2浪してしまった自分は、もう浪人はこれで終わり、3浪は出来ない、今度又1期に落ちたら、もう、医学部は断念すると堅く自分に誓っていたものだ(が、又、2浪して1期に落ちてしまったが)。
 更に10年前の昭和34年(1959)9月、小学校4年生の時だ。(経団連の会長の母校でもある)蒲江(かまえ)小学校から2年生の時に西上浦(にしかみうら)小学校に転校し、昭和34年9月に、佐伯小学校に転校した。環境がその三箇所でかなり変化していた為、強いカルチャーショックにさいなまれていた。魚釣りから城山登り・将棋・囲碁・野球・相撲・逆立ちなど、中学2年生の2学期を迎えるまでは、遊びで一生懸命で、受験とは無縁の生活を送っていた。