日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その5)


 「宮崎県立宮崎病院勤務時代」

 昭和51年6月1日〜昭和52年9月30日の1年と4カ月間、「(医学生の最後の夏休みに1週間程研修した)宮崎県立宮崎病院」に就職して、仕事をしました。ここでは、又、新たな出発でした。
 1、初めの12カ月間、給与月8万円で年間100万円にも達せず、2年目12万円でした。1カ月も経つと、(無給の)救急小児科当番(←当直は研修医は出来ない)を部長以外の医師で順番にしました。
 2カ月目には、新生児・未熟児も、(ほぼ順番で)受け持ちました(←新生児・未熟児は、何故か、早く持ちたい気持ちで一杯だったのですが、部長からは、まだ、未熟だから3カ月間は駄目と言われていました・・・しかし、7月の中頃には、実績で認められたのでしょうか、受け持つことになりました・・・)。
 2、引き継ぎで、13歳女児の慢性腎炎、11歳男児ネフローゼ症候群、13歳女児のテタニー(その後、私が、ビタミンD抵抗性くる病と診断しましたが)、4歳男児の急性腎炎)と、初めから引き継ぎで、4人受け持ちました。(←いきなり経験しない特殊な世界に入ってしまった感じで、少し慣れるまでは、しばらく鬱状態になっていましたが・・・)
 3、初めの月(昭和51年6月)に、新しく、4日に12歳男児の腎炎性ネフローゼ症候群、14日に5か月女児の川崎病、22日に1カ月男児の細気管支炎、25日に7歳男児自家中毒症、と4人受け持ちました。まる3カ月過ぎると、もっともっといろんな沢山の症例を持ちたい気持ちで一杯でした。
 4、そんな感じで、16カ月間で、169例の貴重な症例を受け持ち、これから先の小児科医としての私の基礎の基礎が築き上げられました。(ありがとうございました、合掌!)
 5、最後に、1カ月を要して、「小児科研修医の手引き」なる本(具体的に、指示の仕方など、書いています・・・→こんな感じで、具体的に書いている本、今もない感じですが・・・←ホントは、具体的には、書けないのでしょうが・・・?!)を作成して、次の県病勤務の小児科研修医が困らない様にしました。(→県病に就職した次の小児科研修医がそれを真剣に見ていたそうですが・・・?!)

 「実際に体を使わないと覚えない、兎に角、沢山いろんな症例を積んで、試行錯誤しながら自分のものにして行く・・・大きな失敗をしてしまうと大変だから、その時は、遠慮なく上の人に相談すること・・・」って感じで、初めは、何をするにも、上の人に金魚のフンの様に、しつこく尋ねていました。
 で、いい案が思い付きました・・・それは、過去の先輩のカルテを参考にすることです。全く同じ症例でなくても、病名と年齢で、ある程度、ナースへの指示や経過は、決まっているはずですから・・・ノートに書き出して、それに、自分なりに少し変えて、次第にいいのが出来上がって行きました。又、薬剤部から添付文書をもらってきて、薬がどこにどう効いているのか、調べて行きました。
 で、時間が経つと、次第に医療の周りが見えて来ました。私の質問に、先輩も、どう応えていいのか、迷っていたのです。つまり、臨床では、分からない事が実に多く・・・先々の経過は、誰にも分からないが多いのです。で、私が下した結論は・・・→今以上に悪くなる前に、ちょっとした変化が出ることが多いので、それを見逃さないこと・・・→それには、受け持ちの患者さんを主治医がいつもよく診ているしかありません・・・→特に、新生児・未熟児では・・・?!
 小児科部長(副院長)が次の様に言われました。
 「自分の目を信じなさい!検査室の結果が出る前に、自分でリコール(髄液)を数えなさい!小児科は朝来たら気になる患者さんは直ぐに診て、昼診て、夕方診て、そして、又、帰る前にもう一回診なさい!」(←私は、リコールの染色までして(←結構これ難しいのですが・・・)、部長回診(←週3回あり)の時に、部長からをそれを顕微鏡下に見てもらって、確認していました。当時は、細菌性髄膜炎が多くて・・・入院後の初回のルンバール(腰椎穿刺)のみ、失敗すると診断が正確に付かなくなるからと言って、細菌性髄膜炎と思われたもののみ、部長自らがしていました。)
 小児科部長は、不必要な検査をしない様に、不必要な薬を処方しない様にと常に言い、理学的診察(聴診・触診・視診・打診)をとても大切にする臨床医で、周りは、”臨床の神様”って感じに思っていました。独り勤務の病院に行っても、それなりに出来るドクターにすることが目標だったみたいですが・・・そこを辞めて大学に行く時、私の今後の目標は、いい研究でなく、出来るだけ早い内に、この小児科部長以上の臨床の腕を持った医者になることでした(家内に、しばしば、そう言っていましたが・・・)。
 お金がないので、子作りはしませんでした。仕事で忙しくて、運動らしい運動もしませんでした(←運動しようと思えば、出来たと思うのですが、当時は、そんな時間があれば、医学書を読むべきだと思っていました。)
 趣味もこれと言ってありませんでした。勉強勉強でしたが、何故か、私が手品が出来ると言うことを周りが知っていて、病棟の子どもの「クリスマス会」の時に、手品を披露しました。
 小児科部長(←朝型で、電話をすると、深夜でも、直ぐに駆けつけてくれていました。ピアノを朝早くからしばしば上手に弾いていました。)が私の手品を高く評価してくれ、とても嬉しかったのを覚えています。

 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070608/1(当時の生の記録です・・・)


*写真は、平成7年11月23日、「勤労感謝の日」に、佐伯市の茶室「汲心亭(きゅうしんてい)」での「たはら小児科茶会」で撮ったものです。