日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

原 点

 漫画は悪だと言っても、「のらくら二等兵」の様に、教訓めいた素晴らし漫画もある。同じ様に、テレビの弊害がいろいろと言われている。テレビは悪だとの考え方をする人もいるが、その見方からもう一歩進んで、テレビから見られない様にしたらといいと思うのだが。
 今まで見たテレビ番組の中で、スポーツに関しては、今でもはっきりとその状況が浮かぶ内容のものが3つある。
 40年以上前の東京オリンピックでの女子バレーでの日本とロシアとの闘いで、タッチネットで日本が勝ったシーン。その時、中学校の女子バレー部でキャプテンをしていた姉と一緒に見ていて、興奮したものだ。
 又、同じその東京オリンピックでの最後の種目のマラソンで、自衛隊出身の円谷幸喜が、さえない日本の陸上界で、最後に会場で抜かれたた場面だ。しかし、3位の日の丸が上がり、母と一緒に見ていて、母が泣いていた。
 そして、もう一つは、もう40年近くになろうとしている(1969年)夏の高校野球の甲子園での決勝戦青森県代表の三沢高校愛媛県代表の松山商業との歴史に残る延長戦だ。延長18回戦までで0一0、翌日再試合で4対2で愛媛に軍配が上がった。しかし、その間、何度チャンスと危機が両方にあったことか。私は、その時、その2試合とも全て見ていて、とても感動し、これ以上の試合はもうないと思った(事実、今もそう思っている)。
 平成20年7月26日(土)の夕方、その時に闘った相手同士がテレビの民放の出ていて、当時のことを語っていた。
 その時に一番活躍した三沢高校の元ピッチャー太田幸司氏と松山商業の元キャプテン大森光生氏だ。
 太田氏は、言う、「無欲の状態での延長戦だった。結果的には翌日負けたけど、涙が全く出なかった。俺は一人で最後まで投げ通せたのに、相手は、(井上と中村の)二人で投げた。負けてもあんなにスカッとした気分になれたことは今までになかった。プロに入っても、初めの1年目の成績は1勝、翌年は0勝、それでもオールスター戦で選ばれて、実力が伴っていなくて恥ずかしい思いをしてきた。しかし、そんな時に高校野球での決勝戦での頑張りを思い出して、15年間プロで頑張ることが出来た(58勝85敗4セーブ、その後、野球の解説者)。その原点は、やはり、あの決勝戦で投げ通せたことにある」と。
 大森氏は、言う、「15回裏の時に、1死満塁で、カウントは1一3で、松山の絶体絶命のピンチ、それが0点で押さえられた時、自然と涙が出て来た。翌日勝っても、何故か嬉しくなくて、三沢の選手に申し訳ないと思った」と。
 で、大森氏は、18回まで使ったそのボールをお宝として持っていて、ある時、25歳の自分の息子に初めて見せている。又、収録されたその日には、太田氏と笑顔でそのボールを使ってキャッチボールをしていた。
 歴史に残るこの決勝戦での試合は、愛媛県民の粘りを見せたと言うことで、その後の愛媛県民の自信にもつながっている。
 
*太田氏は、日露の混血ゆえ、薄茶色の髪に色白で端正な顔立ちの美少年だったため人気があり、加えてこの決勝戦の熱投もあって、「コーちゃん」と呼ばれて女子高校生などに絶大な人気があった。そのため、悲劇のヒーローというよりも、アイドル甲子園球児の元祖というべき存在だった。