日本の心・さいき

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ごくせん・・・

 6月28日(土)放送の仲間由紀恵さん主演のテレビドラマ「ごくせん」(日本テレビ系)最終回の視聴率が、23.6%(関東地区)だったとのこと。4月19日放送の初回が26.4%を記録し、ずっと高視聴率を維持してきていた。
 何でも、「ごくせん」は、同名タイトルの人気マンガが原作とのことで、任侠集団「大江戸一家」のお嬢様の「ヤンクミ」こと山口久美子(仲間さん)が、問題児ぞろいのクラスをまとめていくという物語。
 彼女は、他の教師が嫌がるクラスを持つ。つまり、命懸けで札付きめいた問題児ばかり集めた高校生のクラスを。で、いろいろ問題を起こして、それを彼女一人が命懸けで助ける内容。物語なので、彼女は、決して負けない。そして、どんな所にも、一人で飛び込んで行く。
 これが高視聴率を保った理由は、何と言っても、それに共感する人が多かったことであろう。
 暴力では解決しない、過去の自分は消せないが人間はこの先変われる、この世には損得なしで命懸けで助ける人がいる、命の尊さ、そんなことに深く感銘を受けた人が多かったに違いない。
 初め、正直言って、こんな暴力沙汰の番組何てと思っていたが、最終回は、「篤姫」に決して負けない程に(過激なシーンが多いのには、いささか閉口しましたが)感動しました。
 教師が、強い信念を貫き、生徒に自信を持たせ、生徒の自尊心を大切にすること、それが教育では大切かと思いました。

*写真は、内容とは、関係ありません。

以下は、私のエッセイです。
 生きる上で今までにいろんな人と出遭い、いろんな影響を受けてきた。その中でも、教師からの影響は、自分にとっては、非常に大きかったと思う。
既に、故人になられたが、渡辺清一郎先生、この先生ほど、自分に影響力を与えた教師がいただろうか?
中学校や高校での教師としての誇りの少ない教師の存在に、いささかうんざりとしていた。卒業する時に、受け持たれた高校の教師の勤務評定を自分でこっそりと付けていた。意欲とか、講義の分かりやすさとか、実力とか、生徒の受けとか、そんな項目に分かれて、それぞれが5点満点で、記載され、その最高得点が、この渡辺清一郎先生であった。
先生は、上野丘高校で活躍しておられたが、家庭の事情で、佐伯に帰って来られた。自分が高校3年生の時に、佐伯鶴城高校に来られ(昭和42年4月〜昭和43年3月まで)、幸いに、先生の授業を1年間、みっちりと受けることが出来た。
先生は、一言で言えば、「個性の固まり」であった。髪は、ボサボサで、1年に2〜3回しか、髪を切っていない様であった。
「時々、手が出るかも知れん。私も、もう、老人だから、追っかけて打つまでの元気は、もうないから、その時は、逃げてくれ」と、初めの授業の時に、言われた。
又、最後の授業では、「どんな時代になっても、個性を失くすな。個性のある人間になれ!」と言われた。
先生には、実に、いろんなエピソードがあり、ある時、駆け落ちした生徒がいて、空港まで見送ったそうで、その時、校長が、「何故止めなかったのか、おまえには、全く開いた口がふさがらん」とまで、言われていた。
先生の目的は、ただ一つ、「生徒の為に」ということだけであった。毎日、宿題のプリントを与え、模範解答を付けて、直ぐに解答して返していた。先生の私的なコメントも、しばしば加えられていた。先生は、朝、3時過ぎに起きて勉強されていた。その年の大学入試の数学の問題を、夏休みが始まる前までに、全て、解かれていた。又、そうしないと、高校の教師は、出来ないとまで言われていた。口先だけの人間を一番いやがる人であった。
又、先生は、次の様にも言われていた。
「自分は、いい影響を生徒に与えているかどうか、よく分からない。悪い影響を与えているかも知れん。しかし、何にも影響を与えないでいる教師よりも、何か生徒に影響を与える教師の方がいいと思うから、・・・」と。
私が何よりも、その先生の生き方に感化されたのは、その溢れんばかりの生徒に対する愛情と行動力である。そして、不動の信念であった。
先生の次の言葉もしっかりと私は覚えている、「採点間違いではと言ってくる生徒がいる、つまらん生徒になるな。それに輪を掛けて点数を上げるつまらん教師がいる。・・・生きる上で、3つの大きな関門がある。それは、受験と結婚と死ぬ時だ!」と。
 先生の生き方に最も影響を受けた人間、それは、他ならぬ自分であったと思う。
「生徒の為に」、医師になっても、「患児の為に」、この至誠ほど生きる上で、価値ある強い生き方は、他にはないと言う事を、身を持って教えてくれた教師、それが、この渡辺清一郎先生であった。
  医師になって、自分が心底から本当に尊敬できる先生、もう、こんな先生は、現れないのではと思える様な神様的な先生、それは、鹿児島大学の学長をされていた神経内科の「○形○○先生」と宮医大で病院長をされていた心臓外科医の「○賀○○先生」であった。○賀先生は、故人となられてしまったが。
  二人の教授に共通することとは、朝、その科の多くの医局員よりも早く、病院に来られていた。研究と臨床と教育、全てが、超一流、それに、お金や権力に囚われず、頭が低く、実に、人間的であり、立派な信念の持ち主だったことである。