日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

犬山市の全国一斉学力テスト反対を支持します。

 愛知県犬山市(8万余)の教育委員会が、全国一斉学力テストに反対して、今年も実施しないことにしている。3対2で、かろうじて反対が成立している。
 ちゃんとそれなりに自信を持って教育していると思っている学校には、学力テストを上から強いるべきではないと思う。自分の学校のレベルがどの程度か分からなくてどうしても知りたくて困っている場合でも、それに代わる問題でチェックすればいいのであって、上からどうこう言われる問題にすべきでない。全国一斉に学力テストを施行して、それで出来不出来を把握して、更には、それで生徒の学力のあるなし以外に教師の資質まで見ようとしたり、学校のレベルを絶対視する方向に行けば、一体教育とは何かと言いたくもなる。
 教育の成果は直ぐには出てこない。長い年月が掛かるのである。受験で苦しんだ人間が、還暦前になってもその時の受験の夢を見てうなされるなんて、やはり異常だと言わざるを得ない。又、小さな子どもが子ども同志で楽しくゲームなどをしながら精一杯遊ぶべき時に、正規の学校に行っているのに、それから又塾などへ行って勉強を強いられているのは、酷と言うべきだ。
 今でも、夜の(兵庫県の)三ノ宮駅に行ってみるといい。熟通いの受験生で、駅周辺は一杯になっている。しかし、それを見た大人の間で、それでどうこうしようと言う動きは全く出てこない。これも不思議だ。
 受験勉強をずっと強いられて入学した大学生、やはり、どこかで息抜きをしないといけない訳で、大学に行っても寝たっ切り傾向の学生になっている人が多い。周りが勉強をさせてきているので、自分で問題を作ってそれを解決しようとしない。問題も、その解き方も、ちゃんと大学が教えてくれるものと思っているのだ。
 更にやっかいなのは、体力の低下とやる気の低下である。そして、肩書きだけで人を判断し、他人とのコミュニケーションのぎこちなさである。有名大学に入ったのはいいが、失ったモノの方が多くて、それがその後生きる上で致命的なることだってある。入ることに価値観を置いてきた教育機関は、そのことに関して何ら責任を取らない。
 欧米では、教育ママゴンが行き着いた結論は、いい精子を得ることで、それなりに(父親不在で)精子バンクで遺伝子を得て、子どもを作っている例もある。その子ども自身が24歳になって言っていた、「母親が異常なほど、自分と親密になっている。自分のIQ180が高いのは、単に1つの素質に過ぎない。自分は他人と関わることが苦手で、内向的な性格になっている。」と。
 日本の教育システムの根本は、戦後、何ら変わっていない。小さい時から競争競争。受験勉強を周りから強いられる。その結果、勉強嫌いの人間を沢山作っている。文部(科学)省は、コロコロと教育システムを変え、教師も自信を失い、疲弊している。
 根本は、やはり、楽しい学校にすべきである。知識を得ることは喜びであり楽しいことであり、それを肌で感じる様に小さい時から周囲が出来れば、それで事足れりである。後は、自分で学ばせればいいのだし、それを一緒に学ぶ仲間と場所と時間を与えればいいだけだ。しかし、戦後の子どもには、3つの間がどんどんなくなっている。つまり、(分け隔てなく遊べる)仲間と時間と空間が。
 小学校低学年では、いい先生とは、生徒と一緒に遊んでくれる先生ということになっている。しかし、小学校高学年からは、尊敬できないと、生徒よりも目に見える形で出来るモノがないと、生徒から善い先生とは言われない。
 イタリアの語学学校に行っていた時にも、カナダの語学学校に行っていた時にも、学校側がゲーム的感覚で語学を楽しく学ばせようとしていることに気が付いた。少人数で、アイコンタクトがちゃんと出来て、昨日どうだったって話から始まる。目的があるので、学生は、皆、一生懸命に学んでいた(自分は、半分遊びで、申し訳なかったが)。
 自分の事を考えてみた。1949年生まれで、子どもが家の周りにうじゃうじゃいた。友達同士の喧嘩も絶えなかった。皆貧乏だった。小学校の低学年では、放課後に先生が出来ない生徒を残して教えていた。小学校の高学年では、グループを作って、教え合っていた。中学の時も高校の時も、(頻回ではないが)生徒同士で問題を教え合っていたことを思い出すし、中学の時も高校の時も、将棋や囲碁を勉強仲間同士でよくしていた。