日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

教 育・・・

 小学校低学年の時に、放課後、授業に付いていけない同級生が、担任の先生からマンツーマンで遅くまで教わっていた光景を思い出す。別に先生がお金を取る訳でもない。当時は、学校の先生と言えば、とてもとても偉かった。医者も偉くて、せめて、最後死ぬ時ぐらいは、医者から診てもらって死にたいと思っていた人も多かった様だ(事実です!)。
 それが、変わった。教育がお金儲けになったのだ。塾がアチコチに出来て、放課後、お金を取って教える様になった。その多くは、落ちこぼれ救済が目的でなく、単なる受験の為に。(しかし、どんなに受験勉強しても、入る数は決められているのだから、・・・そこでは、相対的に受ける受験生よりも成績がいいことが必要となる!)
 教育が二本立てで行くモノだから、目先のことに捕らわれると、当然、先生の尊敬度は下がっていく。どうせ塾で教わるから、塾の方が楽しいから、・・・ってケースも起きてくる。(学校教育では、点数に出ないことの方が多いのだが・・・?!)
 入試は、東大を頂点として、日本の子ども達がそれなりに強いられる。出来る子と出来ない子が区別されて教育される。6カ年一貫教育が入試に有利だとか言って。これって、全体から考えると、ホントにいいことなんだろうか?
 フィンランドでは、大学過程を6年間も経て、先生になる。子ども達のなりたいものの第1位は、医者や政治家を抜いて、「学校の先生」だ。そこでの教育では、大学までお金は無料だ! 
 フィンランドの経済が落ち込んでしまった時、それを立て直す為に、時の政府は、「教育」に主眼を置くことを決めたのだ。教育をして、その人間がちゃんとした能力を持てれば、それ相応の仕事が出来る。仕事が出来れば、立派な納税者になれる。当然、それにより、国に沢山の税金でのお金が入ってきて、国は立て直せる。そう考えたのだ。そして、その通りになったのだ!!
 そこでの教育では、今の日本の流れと違って、出来る子と出来ない子をはっきりと区別しない。出来ない子であれば、出来る子になる様にと、担当の先生が一生懸命に学校で指導して行く。
 日本の義務教育では、よほどの事がない限り、落第がない。これは、珍現象なのだ。土台、義務教育とは、子どもに教育を受ける義務があるという意味ではなくて、子どもにちゃんとした教育を社会が教育する義務があるという意味だと思うのだが。
 外国では、出来ない子は、当然、落第する。アメリカでもオーストラリアでもインドネシアでも、日本以外は、どこでもそんな感じだ。又、落ちた子も親も、それを当然の如く受け止めている。
 落とす理由は、次に教える先生が困るし、何よりも、本人自身が付いて行けなくて困るだろうからとのことで。(日本では、出来ないことよりも、まず、落ちると恥ずかしいと考える・・・しかし、大学で、遊び惚けて留年した場合は、恥ずかしくないのかな・・・東大法学部では、沢山の人が留年して、司法試験や国家試験一種などの受験勉強に精を出していますが・・・?!外国では、留年する場合は、大学での生活費を稼ぐ為にやむなく留年している例が多いみたいだが・・・?!)
 今の日本の現場の教育では、小学生の3割が、中学校では、5割が、高校では、何と7割もが、授業に付いて行けないってデータがある。大学だと、もっと多いかな。東大の教養部でも、物理や化学だと、いきなり難しい式が出て来て、ただ、講義に出ているだけって格好になって、それ等にホントに付けてる生徒は、わずかだとか。
 ある大学では、大学に入ってから、高校の内容の補習って感じでしている所もあるぐらいだ。大学を卒業して会社に入っても、又、会社が一から教え込む感じになっている例もある(大学で学んだことが、あまり役に立っていない・・・)。(日本の教育には、無駄が多過ぎるのでは?!)
 もう、受験中心の勉強は、止めましょう。ホントに学力が上がる教育をしましょう。入試前にいやいやながら覚えた事なんて、入試後、すっかり忘れていること、多いはず。
 ホントにやる気になれば、どんな子も、よほどのことがない限りは、ある程度までは必ず出来ます。やる気が問題です。
 そのやる気を出すには、やはり、尊敬に値する立派な先生がいること、授業がとても面白いこと、生徒の評価が一人一人それなりに与えられることが大切です。そんな環境だと、生徒自らが、どんどん自分なりに勉強して行くでしょう。
 先生の人事評価の仕方、生徒の評価の仕方、教育制度の仕方、・・・教育百年と言われますが、今正に、教育変革の時ではないでしょうか。