日本の心・さいき

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退職後の雑感(753)

   「黒柳徹子、名医の言葉で病気と絶縁」(再掲)

 昭和62年4月5日の毎日新聞掲載の黒柳徹子さん(現在、90歳で、活躍中!)のエッセイを見て、今でも、私の、この原稿を大切に保存しています。

 もう〇〇年近く(←正確には、半世紀以上?!)、私は病気をしていない。
 特にこの〇〇年間は、「徹子の部屋」という毎日のテレビ番組を持っていて、更にその前に、3年間の、これも毎日のナマ放送の司会をしていたから、合計で〇〇年間、毎日テレビに出ていることになる。
 その間、だたの一日も病気で休んだことがないというのは、自分でも(他に、自慢出来ることなどないけれど、なかなかのものだ!)と思ったりしている。
 私は、30年(←正確には、半世紀以上?!)前の「あの日」から病気をしなくなった。
 私は、NHKで、テレビの為の養成を受け、NHKの専属のテレビ女優として、この世界に入った。初めの頃は、「お前の個性は邪魔だ!」と言われて、ずいぶん悩んだ時期があった。
 個性が邪魔と言われても、若い私には、自分の個性がどういうものなのかもわからず、ただオロオロとスタジオの隅で過ごした。
 「もう、帰ってもいいです!」と降ろされて、一人だけ、スタジオの外の廊下で、同級生の俳優たちの終わるのを、本を読みながら、待っていたことも、しょっちゅうだった。
 その内、世の中が、突然、「個性の時代!」に入った。とたんに、みんな、「さあ、貴女の個性を出して下さい!」と言い、仕事は次から次と押し寄せた。
 私は、途方に暮れた(出しなさい、って言われてるものが何なのか、わからない!)。それでも、私は、皆の言う通りに、一生懸命にやった。
 寝る時間は、殆どなくなった。
 ある日、私は、「過労」と診断され、その日の内に入院ということになった。
 どの番組のディレクタ-も、「自分のだけは、休まないで」と言った。でも、お医者様は、「死ぬよ」と言った。
 私は、仕方なく、全部のテレビとラジオのレギュラ-番組を休んで入院した。先生が、テレビを部屋に入れて下さった。
 当時は、全ての番組がナマ放送だったから、私は、私がいないとどんなことになるかしら、と心配しながら自分の番組を見た。
 私が司会をしていた番組に、私の知らない女の人が出て来て言った。「さあ、今日から、当分、黒柳さんの代わりに私がやります。さあ、始めましょう!」。それだけだった。
 私が、渥美清さんと夫婦をしているドラマでは、隣の奥さんの役の人が、渥美さんに聞いた。
 「奥さん、どうしました?」。渥美さんが、答える。「実家に行っています!」。そして、ドラマは、私なしに、どんどん進んで行った。
 他のものも、似たりよったりだった。
 私は、ブラウン管を見つめながら、考えた。 「・・・実家に行ってます」---この言葉が、耳から離れなかった。
 1カ月後に、病院を出る時、私は、はっきりとした考えを持っていた。
 一つは、もう、絶対に病気をしないこと!。
 もう一つは、自分しかやれない仕事をなんとか見つけよう!。
 私は、先生に聞いた。
 「死ぬまで、病気をしないのは、どうやるんですか?」
 先生は、笑って、「生まれて、初めての質問だな」と言ってから、こう言った。
 「一つしかない。自分の好きなことだけ、やるんだな。自分が進んでやろうとする時には、どんなに疲れていても、寝れば、治る。いやだいやだと思いながらやっていると、疲れは寝ても取れない。やれるかい?」
 名医と言われる先生のお言葉だった。
 私は、そうしようと、心に決めた。
 あの1カ月は、私に、人と自分を比べることの愚かしさ、命の大切さ、いつも自分らしくあること、なども、しっかりと教えてくれた。
 人生の入り口にボンヤリ立っていた若い私には、こんな当たり前のことでも、早く教わったのは、有り難かった。
 あの退院の日に、私は、少し、大人になった。
                        
 ある人の話では、黒柳徹子さん、玄関に入ってから、応接室で話をして、その用事が終わって、玄関のドアを閉めるその直前まで、ズ-ッと、途絶えることなく、話をされるとのことです。

 この内容、今までに、何度も何度も、読んでいて、その都度、又、初心に戻っています。  

*写真は、「臼杵石仏」に隣接する庭園に描かれた「ハート」です。4月9日に撮ったものです。
https://www.youtube.com/watch?v=p1leOzgpUEs(←東京スカイツリーには、まだ、登ったことが、ありません。その内、いつか。上の内容とは、関係ありません。)

 (令和6年4月11日、記載)