日本の心・さいき

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退職後の雑感(90)

  「退職後の雑感、ポーランド

 ロシアのウクライナ侵攻で、ウクライナからの避難民が一番多くなっているポーランド、そのポーランドに関して、日本人の多くは、どこまで知っているのでしょうか?
 私の長男が、ロンドン留学帰りに、ポーランドにある「アウシュビッツ収容所」に寄っています。
 長男が佐伯の幼稚園に通っていた時(次女と長男が、この幼稚園に通いましたが)、そこの神父さん、ポーランド人でした。
 で、その時(幼稚園の父母の会長を3年間しましたが・・・)、私がその神父さんにポーランド語で「ジェンクイエン(ありがとう)」と言うと、目が点になっていましたが・・・?!
 その時の神父さんとの会話で、神父さんが、次の内容で言われていました(今でも、はっきりと覚えていますが・・・)。
 「私は、英語が話せません。ドイツが去った後、ポーランドをロシアが占領して、ポーランド人にロシア語を強制しました。英語は、学べませんでした。私は、英語がしたかったのですが・・・」と。
 このポーランド、あるサイトでは、世界の中で、日本の次に安全との内容でしたが(!)・・・ただ、ポーランドでは、若い人以外は、英語が通じない所が多くて・・・しかし、ポーランド人、(国を失くしたりと、それも一度だけでなく、いろんな経過でしょうか?!)とても親切で、特に、日本人にはそうだとのことですが・・・?!
 トルコが親日的な理由として、それなりの歴史的事実がある様に、ポーランドにもしっかりとありました・・・→
 1920年、ロシア革命の内戦中、ポーランド人がシベリアに抑留されました。寒くて、多くのポーランド人が命を落としました・・・せめて、両親を失った子どもたちだけでも救おうと、アメリカやイギリスに嘆願書を送りました。しかし、返事は来ず、日本だけがその時、手を差し伸べました。
 1920年~22年の間に、5回に渡って、765人の孤児たちが船で日本へ来ました。その孤児達、チフスを患い、頭にはシラミ、餓死寸前の子もいて、最悪の健康状態でしたが・・・日本赤十字の人達が手厚く看護し、全国からも寄付金が集まり、子どもたちは元気を取り戻しました。
 2年後、1人も亡くなることなくポーランドに戻った孤児たちは、終生その体験を語り継いでいるとのことです。
 「連帯」のワレサ大統領は、1981年に「ポーランドを第二の日本にしたい」と語り、ポーランドでは誰でも知っている名言になっているとのことですが・・・?!
 その後、ポーランド語を独学で1年間勉強して(挨拶程度でしかないですが)、家内と一緒に、ポーランドワルシャワクラクフ)に、個人旅行で行きました。ポーランド人がとても親切で、いい思い出になっています。

 (令和4年3月19日、少し修正して、記載)

 

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