日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その4)


 「医学部大学生時代」
 大学に入学する前に、大学でどのように過ごすのか、二浪の時にそれなりの計画を立てていました・・・更に、大学の講義が始まる前には、もっと詳細に方針を立てていました。
 卒業する時に、ほぼ、その様に出来たことの証として、「為になるかも知れない本」なる本を執筆して出版しました(→と言っても、お金がないので、生協でコピーして、20冊分作成しただけでしたが・・・)。それを今までお御世になった人に差し上げました(←皆が、国家試験で猛勉強している最中に・・・)。
 この時、10年後には、ちゃんとした本にして出版しようと決意し、佐伯の西田病院に勤務して、一番忙しい時に完成させて、全国の進学高校450校に配りました。ある年には、学生による鹿児島大学医学部入学生のオリエンテーションにも、私の「続・為になるかも知れない本」が配られました。
 
 私の大学生活とは・・・→
 大学に合格してから、不思議なことが沢山ありました。まず、(教育者であるはずの)父親から、「留年だけはしないように・・・」と言われ、勉強しろとは言われませんでした。医学部テニス部の先輩同士の会話で、「今度入ったの、(教養部の講義に)真面目に講義に出てるって・・・」と言うのが聞かれましたが・・・?!
 「学部(専門課程)では、朝早くから講義が始まり、遅くまで実習があり、一度に(基礎科目では特に)合格するのが難しく、とてもきついので、今しか遊べる時はないから、今の内(教養2年間)に悔いなく遊んでいた方がいい・・・」と、何人もの先輩から言われました。
 教養部の単位修得も、先輩の話では、出席していれば、まず大丈夫って感じでした。ただ、私の次兄(←その時、九大工学部の大学院を卒業して、鹿児島の高専に就職していましたが・・・)だけは、言い方が全く違っていました。
 「初めから一生懸命に勉強しろ・・・大学は、講義だけでなく、きっかけを作ってくれる所・・・後は、自分で勉強して行くしかない・・・ドイツ語は、マインドイチでなく、NHKのテキストが一番いい・・・コツコツやるしかない(←次兄は、大学の時はフランス語を、大学院を卒業後は、ロシア語を独学でしていましたが・・・)」とアドバイスしてくれました。
 医学部の軟式テニス部に所属して、後衛をしていました(←教養の時には、殆どサボることなく、真面目に練習をしていました)。フランス語やドイツ語の時は、しっかりと自分なりの訳を書いて、講義中に、それを添削していました。浪人の時も同じことをしていましたが、今度は、古文や英語でなく、他の言語かと思うと、ワクワクして、朝早くから楽しく予習をしていました。日中友好協会に通って、中国語も勉強しました。
 教養部での単位は、落とすことなく、追試も受けることなく、満単の110単位を取り、語学は25単位(優が20)取れました。それで、又、自信が付けることが出来ました(←自分の仕方でいいと思って・・・)。
 趣味は少なく、手品と囲碁だけって感じでした。
 教養部の時から卒業するまで、勉強ばかりの6年間でした。夜8時過ぎに寝て、朝3時頃から勉強することの多い生活でした。正に、学生=学に生きるでした。
 今までの押し付けられた感じの受験勉強の内容と違って、大学での科目が皆とても新鮮に思えて、私には、とっても魅力的でした。
 そんな中でも、山登り(霧島山)もしました。(医師になっても宮崎にいる時、しばしば、山に登りました。)
 専門では、長い休みは、図書館に籠って、厚い教科書を読破していました。講義が始まる前に、薄いその科の教科書を読みあげていることもしばしばでした。
 専門3年と4年では、長い休みを利用して、インターンの代わりと思って、アチコチで臨床修練をさせてもらいました。卒業試験中は、下の学年と一緒に講義を受けていました。
 大学での私の最大の収穫は、医師免許を取得した以外に、何と言っても、いい伴侶を見付けたことでした。
 島田陽子の顔立ちで、竹下景子の賢さを持ち、紺野美沙子の上品さと、西村知美の無邪気さを兼ね備えた感じで、口数少なく・目立つことが厭で(←私と丸っきり反対で)、上品で謙虚で、人を立てて、辛抱強く、年齢よりも若く見えて、とても賢くて、優しくて、愛情深くて、恥じらい深くて、奥ゆかしさがあって、しっかりいていて、物欲がなくて、そして、可愛いかったです。(・・・→今はどうかってですか・・・→横向きでなく仰向けに寝ると、時々、いびきが聞こえることもありますが、それも、可愛いです?!)(←難しい事を知っていても、知らないと言う人は、それまで、私の周りには、いませんでした・・・彼女は、超愛読家でしたが、今もそうで、同時に何冊かの本を読んでいたり・・・?!)
 私が入学した時の国家試験の合格率は、100%に近い状態で、よほどのことがない限り落ちないと周りから言われていましたが、それが次第に下がって行き、私が受験した時(昭和51年春)には、2割ほどが不合格になってしまいました。
 私の命の恩人である父の誕生日の4月18日、国家試験の発表前に、目出度く宮崎神宮で結婚式を挙げました。

昭和45年・・・97.9%
昭和46年・・・96.6%
昭和47年・・・93.8%
昭和48年・・・88.9%
昭和49年・・・82.2%
昭和50年・・・82.4%
昭和51年・・・80.4%
(全て春の全国平均成績、国試は年2回あり)

*写真は、私の出版した「続・為になるかも知れない本」と、初めて参加した(佐伯市の修行寺養賢寺での)お茶会で、コチンコチンになっている私の姿です。