日本の心・さいき

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大江天主堂・崎津天主堂(3/4)




 「チャペルの鐘の展望公園」でいい思いをして、崎津天主堂に再び行って、写真を撮った。その後、タクシーを利用して、「天草コレジヨ館」に行った。
 そもそもコレジヨって何かなあと思っていたら、これは、ポルトガル語で、英語のCollegeに当たるとのこと。正確には、「Collegio Amacusa」と、ポルトガル語で書く。
 日本に初めてキリスト教が伝えられたのは、1549年、スペイン人イエズス会士のフランシスコ・ザビエルにより、ローマ・カトリック教が伝えられている。
 天草にキリスト教が伝えられたのは、1566年で、ポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによる。苓北町壱岐を訪れ、キリスト教の布教が始まっている。当時、天草島民の7割近くがキリスト教の洗礼を受けている。又、その2年後の1568年には、日本布教長コスモ・デ・トルレスが志岐を訪れて、「全国宣教師会議」が開催されている。
 アルメイダと言えば、大分市には、医師会立病院であるアルメイダ病院があるが、そのアルメイダである。崎津天主堂のあるこの河浦町に、天草コレジヨが誘致され、1591〜1597に天草学校とイエズス会本部が設置されたのである。この時、天正少年遣欧使節団としてローマ法王に会った4人(千々石ちじわミゲル・伊藤マンショ・中浦ジュリアン原マルチノ)も入校したのである。
 創建中心人物は、日本イエズス会のアレハンドロ・ヴァリニアーノ(イタリア人)で、巡察師の職名を帯びて来日したイエズス会の司祭で最高指導監督者者であった。20歳足らずの若き少年使節団は、1582年長崎を出航し、長旅の後にローマ法王に会い、8年後の1590年に帰国している。その時に、日本にグーテンベルク活版印刷機や西洋楽器が持ち込まれ、しかも、4人の内の1人により、秀吉の前で演奏もし、秀吉によりアンコールが2回もあっている。
 しかし、出航した時代の織田信長と違って、豊臣秀吉の時代には、キリスト教を認めなかった為に、彼ら4人はその後それなりに迫害されることとなる。
 このコレジヨ、初めは府内(大分)にあり、秀吉の監視を逃れる為に、密かに場所を8回も変え、7番目がこの河浦町となっている。
 その後、1637年に、上天草市大矢野町出身の若き天草四郎時貞天草二郎と言う歌手がデビューしていますが)が「天草・島原の乱」で、現れることになる。
 「天草ロザリオ館」では、20分間の映画があり、又、知らなかったことを30分程も掛けて詳細に教えて頂いた。
 つまり、大江天主堂も崎津天主堂も、天草四郎とは関係ない感じで建設され、又、それも1年ずれて2つが建設され、(建物の感じが、ロマネスクとゴシックで全く違うのに)それを設計した建築家は、同じ日本人となっている。
 現在、大江地区に300人、崎津地区に200人のキリスト教の聖徒がいるとのことでした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80