日本の心・さいき

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7月10日って、何の日?

7月10日って、何の日?
(以下、フリー百科事典より)
 中国山地山間の農村・敷信村生まれ。14歳の時、国民学校での朝礼中、130キロ離れた広島市に投下された原爆の閃光を見る。まもなく大やけどを負った被爆者が、田中の村にもたくさん運び込まれ「アメリカは人殺しの国だ」と憎悪を募らせた。学校までの4キロの砂利道を走って通ったことがランナーの原点。広島県比婆西高等学校(現・広島県立庄原実業高等学校)在学中、高校20キロマラソンで優勝するなどで注目され1951年、海外派遣選手壮行マラソンで2時間28分16秒の戦後世界最高記録をマーク、19歳で日本が初参加したボストンマラソン代表の一人となった。マラソンチーム監督の岡部平太は「民族の誇りを復活させるには、アメリカで国民的行事であるボストンマラソンを制するのが1番」と考えた。田中もアメリカはまだ敵国のイメージを持っていた。
 ボストン到着後、国防総省の関係者から連行され尋問を受ける。多くの被爆写真を見せられ「これは本当なのか」と質問された。翌日のアメリカの新聞は田中を「アトムボーイ」、全滅したと思われた広島から選手が出場する、と大きく書きたてた。当時の多くのアメリカ人の日本に対する認識はこの程度だった。4月19日レース当日、田中は「原爆で負けたと言われたくない」と奮起し2時間27分45秒で見事優勝を飾った。また他の日本人選手も3人が入賞した。その夜田中は黒人達にバーに連れ出され「お前は凄い。俺達は白人には勝てない」祝福された。また田中の優勝は、日本人戦後の国際舞台での初めての優勝でもあり、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を大いに勇気づけ国民的英雄ともなった。帰国後広島駅で見つかり、無理やり木炭トラックに乗せられ故郷の敷信村まで凱旋パレードとなった。沿道は小旗を振る人達で溢れた。連日の歓迎会は地獄だったという。
 日本の戦後オリンピック復帰となるヘルシンキオリンピックが翌年に迫り、オリンピックも勝てる、と言う周囲の重圧が田中を苦しめた。のちに「円谷幸吉の気持が痛いほど分かるよ」と語った。日本大学に進んだが膝に軟骨が出る故障を起こし、回復が遅れ練習不足のまま1952年、代表選考レースとなった毎日マラソン(現・びわこ毎日マラソン)に出場したが惨敗。オリンピック出場は成らず。故障の悪化で大学時代に競技生活を終え、ボストンマラソン優勝を唯一の勲章に現役を退いた。
 その後は西武百貨店などに勤務し、日本陸上競技連盟理事などを務め、1999年地域ランナーを育てる陸上クラブ「東京ハリアーズ」を旗揚げした。
 ボストンマラソンの大会本部が出している公式歴代優勝者名簿の欄には「Hioroshima Japan」と田中一人だけが国名以外に出身地まで記載されている。

 そのボストンマラソン優勝の金メダルが、1998年5月6日に、宇都宮市の自宅で盗難にあってしまう。田中個人の金メダルでなく、皆のメダル、それをなくすとはと非難が集中する。田中は落ち込むが、それを知った主催側のボストン体育協会が、1998年7月10日の今日、全く同じではないが、新しい金メダルを再び田中に授与する。その後、盗難にあった金メダルが幸いなことに発見され、現在、2つの金メダルが公の記念館に飾られている。
 又、今日は、イタリアの壁画に落書きした日本の女子大学生が、再び大学の学長とフィレンツェのその場所に行き、10万円持参して涙を流して詫びていたが、逆に、イタリア側からは、日本人のその礼儀正しさが絶賛され、友好が生まれたと言われている。
 暗い話が多い中、いい話と思います。