日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

広島原爆の記録・・・

 「おおう、今日もB29が1機空高く飛んでいるなあ。」と、私は隣の町田伍長に話し掛けた。
 「そうであります。4、5日前から毎日飛んでいるのに、爆弾1つも落とさないで、何の目的で飛来しているのかわからないですが、高射砲の弾丸でも怖いのでしょうか?」1万メートルの高度にて飛行中である。
 私は、陸軍兵器学校の専門の生徒の出身であり、三年生卒業前に大阪造幣所局に実習に行った時、高性能の自動一式高射砲が試作中であるのを知っていた。この新型高射砲は、軍事機密であった。当時広島には旧式の88式高射砲の陣地しかなく、高度5千メートルしか爆発信管調整が出来ないことを知っていた。だから、頭上高く飛来しているB29は、平気そのもので飛行中であったのだろう。私は船舶司令部整備教育隊より兵60名を引率し、比治山の兵器所に向かう軍事行動中にあった。
 その日、8月6日の朝8時頃であったろうか、雲一つない晴天に太陽は燦々と照り輝き、炎熱の電車通りを目的地に行軍中にあり、再び隣の伍長に「何処か涼しい近道はないか、暑くて堪らん。」
 実は、部下達も皆そうであった。とても細い路地道に軍行を進め、眼前に比治山公園を見た。思い出せば、数カ月前に田淵少尉と一緒に比治山公園の広場にて、初年兵の徒手教育訓練をしたなあと思った瞬間であった。
 突然にピカピカキラキラとあたかも電気のスパークの如き青白い光線が空を走って広がり、オレンジ色と化した。思わず熱いと驚いた間一髪、地球が破れんばかりのドカン、バリバリの強烈なる爆発音、耳は勿論、五体も張り裂けんばかり。とっさにあの大きなガスタンクに爆弾が命中したのかなと思った瞬間、今度は、ゴウーと物凄い音の轟く爆風の渦の中に巻き込まれ、一瞬、真っ暗な中で地上の全ての物が吹き飛ばされた。生き地獄の中の真っ只中にあり、私は地球上には立っていなかった。
 どのくらい空中にいたのだろうか?ふと気が付くと大木の折れる音、家屋の崩れる音、その他もろもろの轟音のする暗い民家の中から助けを求める声、呻き喚く声、人間であって人間の声ではない。先程までの広島は何処にあるのか?一体地球はどうなっているのか(どの様に表現したらいいのかわからない)。そして、先程まで私が引率していた部下は今何処にいるのか、一体、今どうなっているのか?
 私には重大な責任がある。あの物凄い爆風がだんだん薄れて行くに従って明るくなってくると、私と行動を共にして来た部下の姿が見え始めてきた。私の身近にいるはずである。まだ、はっきりと見えない。(後でわかったことだが、私は、右眼を負傷して視力がなかった)。
 やっと見えた。中腰になって戦友を助けている姿が、4、5名見えて来た。先程まで男前であった部下の美男子の顔は、今や一人もいない。汚れ果てた長虫が、血の中でのたうち回ってうごめいている。どうしようもない。私は今どうしたらいいのか?再び爆弾が投下されれば、私はどうでもいいが、全員が死んでしまう。 
 「早く防空壕に入れ!」と何回もどなっているのに通じない様である。一体、自分の口から声が出ているのか、それもわからない。
 私は戦争でいつ戦死しても悔いのない、女性も知らない独身者である。部下の多くは、妻子のある兵である。何とかして一人でも部下を救いたい。ふと頭に過(よ)ぎった。陸軍兵器学校時代、実行演習中、相模原で(陸士と同じ場所)泥沼田の中で銃を両手に支え、泥まみれになり、ブドウ畑を前進中、若井区隊長から「近本、貴様、腰が高い」と言われて、鞘付きの軍刀で強く腰と尻を殴られ、非常に痛かった記憶が甦って来た。
 かくなる上は、私の最後の手段を使う。一名の部下でも助けたい。尊い部下を助けたい。私はとっさに軍刀を腰からはずして持ち、正に鬼と化し、のたうち回る可愛い部下の連中の中に飛び込み、「早く防空壕に入れ!」と鞘の付いている軍刀で部下の背中・腰・尻を殴っていた(だが、実際にそうしていたかどうかわからない)。私は人間ではない、気違い野獣と化していたと思われる(果たして近くに避難すべき防空壕があったのだろうか)、ああっ、眼が見えない。無惨になっている地球が見えない。地球のどん底にいる(ここまでしか記憶にない)。後でわかったことであるが、この時、私は、頭部に3、4箇所のひどい裂傷を負い、血まみれになり、出血多量で倒れていたのである。

 「ガタン。」、私の体に大きなショックがあったのだろうか?何となく変だ。右の眼は全く見えない。左眼でボーッとかすかに何かが見える。私は何をしているのだろうか?ここは一体どこなのか?私は普段は、柔らかいベッドで寝ている筈なのに、今の背中の下は硬い。すぐに当番兵を呼んだ。寝ている私の足下に二人の兵がぼんやりと立っているのが見えた。オオ、俺は大負傷している。私の体は全身血まみれで、ハエが蜜蜂の様にブンブンとくっついていた。私は生きていた。足下に立っている二人の兵に、「早く連れて行ってくれ!」と声を掛けた。 
 とたんに兵は、「上官殿は生きているぞ!」と言い、頭の傍に立っている兵に、「どうしようか・・・」と言っている。私は、生きているので、病院か本隊に連れて行ってくれるものと思っていた。「どうしようか」とは、何事ぞ。「とぼけたことを何を言うのか」、この野郎何を考えているんだ。気力のない私は、頭を左に傾けた。
 3、40メートル先に、赤々と大きな火の固まりが燃え上がっている。4人の兵は、茫然として立っている。
 わかった!私を死体置き場に運搬中なのだ。今にも火の中に投げ込まれる寸前であった。「おう神様仏様、人間、生と死の間は、どちらを取っていいのでしょうか。私は、生を取りました。生と死は、わずか2、3分間で決まりました。
  直ちに伝令が船舶司令部に飛んだ。直ぐにトラックで迎えに来てもらい、やっとのことで医務室で治療を受けることになった。司令部に帰隊する途中の木造の家々は殆ど焼失し、市内は丸焼けと化している。
 私が失神して、死体置き場にほおり込まれ様としている間に、何百発かの爆弾と焼夷弾が投下されたのであろうか?余りにも無惨である。
 まてよ、私が引率していた部下はどうなっているのだろうか?市内は、焼け野原になっているが、部下達には、全員助かって欲しい。心配でならない。1名でも生きてくれ。誰に聞いても情報がない。皆無事であって欲しいと祈るばかりだ。
 医務室の軍医殿に聞いて唖然とした。爆弾は唯の一発で、見た事も聞いた事もない新型の爆弾であると知らされて信じられなかった。私は、兵器や爆弾の専門の学校である陸軍兵器学校の卒業生であるのに、どんな爆弾なのか、皆目見当が付かない。
 陸軍技術軍曹の近本は、馬鹿であった。軍医は陸軍病院に入院せよとのことであったが、既に病院が焼失してないので、自分の隊に帰ることとなった。
 兵舎の中は、被爆で負傷した民間の人達が収容されて一杯であった。まさか、私の個室だけはとドアを開けて見ると、3名の娘さんが独占して寝ているではないか。
 軍務中負傷して帰った私は、何処に寝たらいいのか、直ぐに当番兵を呼び、「俺は死んで帰って来ないと思ったのか!」、腹立ち紛れに思わずビンタを一つくらわせた瞬間、当番兵はワッと涙を飛ばしながら私に抱きついて来た。
 「無事で帰隊される事を一生懸命に祈り、お待ちしていたのであります。」
 私の胸に顔を付けてワイワイと泣く。思わず私は、金山一等兵の両手を握り締めて私も泣いた。私が一番かわいがっていた金山一等兵である。
 「お前、俺が生きて帰って来るのを待っていたのか!」
 涙、涙である。
 「俺の部下は何名帰っているか!」
 「約12、3名、負傷して帰って来られております。」
 「その次は!」
 「まだ、はっきりとわかっておりません。」
 「上官殿が帰って来られたので、自分は、一番嬉しいであります。」
 又、私の腹に抱きついて泣く。
 「全員帰隊しているか調べて来い、俺はどうなってもいいんだ!」
 「ハイ。」
 これも上官命令である。私にはそれしか言えない。そのあとの部下はどうなっているのか、1名でも多く帰隊して欲しい。
 ふと私の寝る上段の畳を見る。3人の娘さんは、上半身を起こして、目を丸くしてこの有様を見ているではないか。軍人同士のこのよりとり、被爆している娘さん、どうも済みません。頭半分白い包帯をしている私から追い出されるのではないかと恐ろしがっている様子である。いや、絶対にここから出しませんから、どうぞ、そのままごゆっくりしていて下さい。
 当番兵である金山一等兵は、内務の成績が良く、私が第一線抜で一等兵にしたのである。真面目であった。同室の娘さんの面倒もよく看てくれた。私の個室は狭かった。机・椅子のある板の間は広かったが、寝る上段の畳は3枚だけで、私も負傷したので早く横になりたかった。3人の娘さん達は、「ここに居てもいいですか?」と聞いてきたので、「ハイどうぞ。」と言った。被爆者はお互い様である。生まれて初めて娘さんの横に休む次第である。残留部下が見舞いに来た。私は苦しいやら眠たいやら。
 隣の右兵舎・左の兵舎がバタバタしている。収容された被爆者がどんどん死んで行き、そして、死体置き場に運ばれて行く。次は私であろうか?横にいる3人の娘さんであろうか?衛生兵の話では、直前まで元気だった被爆者が、バタバタと死んでいると。恐ろしいことを言うな!30分前に会っていた松井中尉は死んだとのこと。「近本軍曹、お互いに死んではいかんぞ!」と言い合って、見舞いに行った直後の通報であった。「原子爆弾とは一体何物や?!」
 兵舎内の被爆者はバタバタと仏様になって行く。そして、死体置き場に運ばれて行く。次は私・・・、無になろう、このベッドの上で死にたくない。
  ふと、隣に寝ている前田美代子を見る。美しい可愛い顔して、安らかに眠っている。この娘さんよりも自分の方が早く死ぬであろう。さらばと、そっと右手を握った。
 ぞくぞくと死体が運ばれて行く。次は私か。「潔く梢離れて散る桜」「何くそ、ベッドの上で死んでたまるか!」私は職業軍人である。
 突然、隣に寝ていた前田美代子が、「おばあちゃんに会いたい、お母ちゃんに会いたい、お父さん・・・」 何を言っているのか?!容体が変になっている。
 「オーイ、衛生兵、金山一等兵、すぐに来い!」この美代子は、おばあちゃん子であったのか、さっきまで私と話をしていたのに。驚いて前髪を撫で挙げ、両眼を見た。目の玉が変である。直ぐに手を握った。微かに反応があり、目が開いているが、目玉を真上を見ているだけで、私の顔を見てくれない。「オイ、美代子、どうしたんだ!」 美代子の身体を揺さぶる。反応がない。「美代子!」ひどく揺さぶる。死んでいる。私より何故先に死んだのか。この馬鹿。 
 私が手を握って泣いている時、衛生兵が来た。「死んでいます。」 「直ぐに運びます。」と言った。とたんに、隣の2人の娘さんは、ワァーと大声で泣き出した。 
 「おい、一寸待ってくれ。」 衛生兵は無表情な顔をして出て行った。
 この俺を誰だと思っているのか、この馬鹿野郎! 
 遂に来る時が来た。美代子とお別れか。可哀相に。直ぐに運び屋の兵が4名来た。筵(むしろ)と紐を持ってきている。無言で筵で美代子を巻こうとする。 
 「オイ、少し待ってくれ、後で呼ぶから。」 隣の2人の娘は、益々大きな声で泣き叫ぶ。
 「死体は、直ぐに梱包して、桟橋に着いている船艇に積みます。隊長殿からの命令であります。」
 「オオ、そうか、この部屋は俺のものである。俺の命令を聞け、後で当番兵が知らせに行く、帰れ!」 私を睨み付けて4名の兵は出て行った。
 さあ大変、これからどんな事になるだろうか、天皇陛下の命令に叛逆したのである。「殺すなら殺せ、どうせ近い内に、俺も死ぬ身だ!」 腹をくくった。
 横の兵舎の・左の兵舎・右の兵舎からは、死体がぞくぞくと船艇に運び込まれて行く。似の島に運搬されて、火葬されるのではなく、防空壕の中に山積みされて、その上から土を被せて永眠にするのである。遺骨の内、果たして何名がちゃんと身内の元に帰られるのであろうか?誰が誰だかわからないので、それは不可能に近い。死んだ美代子をこのまま似の島に送ったのでは、あばあちゃん、御両親の元に帰る事は出来ない。もし私が生ありて御両親に会うことが出来れば、そして、何時私の身が死することがあっても、肌身から離さずあの世で再会しよう。
 静かに眠る美代子の遺髪を切り取り、胸に付けていた名札を封筒の中に入れ、御両親の住所氏名を書いて貴重品袋の中に納めた。
4名の兵が美代子を梱包して、私の部屋を出ようとする。隣にいた娘さんは立ち上がって、益々甲高い声をあげて泣き出す。
「もう、泣くのは止めなさい、静かにして手を合わせて送んなさい。」と言って、私も手を合わせた。
 船艇は、死体を山程運んで、似の島に消えに行った。美代子よ、その他の亡くなった皆さん、静かに眠って下さい。
 一番憎いのは、何とも知れないあの(原子)爆弾1発である。

 その夕方、隊事務室より、市内は被爆者の救助と遺体処理で大混乱の為、軍事行動に入るとの情報が私の耳に入っ来た。陸軍兵器学校第4期生として、一緒に卒業して任官した同期の約3分の2が、既に戦死していることを耳にした。卒業前に南方方面配慮を強く希望していたのであったが、「近本は教育指導に残れ!」との上からの命令により、広島船舶司令部教育隊に配属させられてしまい、南方方面に配属される同期が、非常に羨ましかった。
 ところがである。東南アジア方面や東南アジア方面に着任した同期は、大混成団体部隊の中で、大部分が20歳そこそこで伍長として加わっていた。その大船団は、昭和19年11月15日、輸送船八隻、護衛艦四隻をもって門司港を一路南方へと出向したのであるが、済州島沖にて、敵潜水艦にて殆どが撃沈されてしまった。
 「潔く梢離れて散る桜」 このまま、ベッドで死にたくない、軍人として死ぬのであれば、軍事行動中に死にたい。私は中野隊長殿に申し出た、「絶対に参加させて下さい!」「近本、そんな負傷で大丈夫か?」「ハイ、大丈夫であります。絶対に行動に参加させて下さい。」
 翌9日、頭の負傷をものともせず、朝6時に兵60名を引率して再び市内に突入する。担当の場所は、寺町である。物凄い死臭の中を通って紙屋町に行き、西練兵傷右に見ながら産業奨励館を左に見る。行軍途中で見る左右の惨状、何たる悲惨さか。あの爆弾一発でこの様な惨事に、唖然としてものも言えない。 木造の家は1軒もない。焼け爛れて夢遊病者の様に、茫然と立っている人、座り込んでいる人、横になっている人、そして、死んでいる人。
 「兵隊さん、助けて下さい!」 行軍中に何回も聞く。直ぐにでも助けてあげたい気は山々であるが、軍の命令で、寺町に一刻も早く到達せねばならない。「後で直ぐに参りますから、待っていて下さい。」それしか言えない。やっと寺町に到着。
 まだ生きている被爆者の殆どの方は、真っ先に水を求めるけれども、水を飲ませたら直ぐに死んでしまうから、絶対に飲ませてはいけないとの軍令であった。私の水筒には水が入っている。しかし、心を鬼とせねばならない。「私の気持ちを察して下さい。」
 大きなお寺の焼け跡があちこちにあり、お墓が沢山有る。だが、殆どの石塔は横倒しになっており、その間には、被爆者の死体で一杯である。何たる有様か!生存者が運んでくるのであろうか、自分の死に場所をこのお墓に求めに来たのであろうか、この多勢の被爆者の死体には、驚いてしまった。
 この死体の中を、口鼻にタオルを当てて、自分の身内を、親戚を、又、知人を探し回っている人達があちこちに見える。死体の中には、目・口・鼻から白い虫が見えているものが多い。
 一刻も早くと焦る感じで、軍令による火葬の行動に入る。近辺より柱・板切れ、燃える物は何でも集め、その上に死体をどんどん並べる。その上に燃え易い木切れを量ね、又その上に持参した石油を振り掛ける。被爆者の皆さん、静かに眠ってくれ。
 くそったれ、一番悪いのは戦争であり、新型爆弾一発である。再び人間として生あれば、絶対に敵の国と作って戦争をしてはいけない。そして、この恐ろしき新型爆弾を使用してはいけない。
 火葬の火は、轟々(ごうごう)と燃え盛り、死体の皆様は、じりじりと焼けて行く。しかも鰯(いわし)を焼き炙(あぶ)る臭いがぷんぷんと鼻をつく。夕食は、握り飯に沢庵と水だけである。死体を焼く前で食事をするのもなかなかである。水で流し込むだけである。夕日は沈み、電灯一つない真っ暗な夜に入る。私達が火葬をしている火は、どんどん燃え続く。真っ暗な周辺を見ると、あちことと真っ赤な火が燃えている。遥か彼方にも、燃えている。何百何千の被爆者の死体が焼かれ、火葬にされている。
 ふと見て驚いた。私達が火葬をしている火に向かって、さながら幽霊でも集まって来る様子で、水を求めて重傷の被害者が来た。今にも死にそうで、非常に弱っていて、衣類もボロボロになっている。この様子を見て、私は止む得ず、軍令を破ったのである。水を飲ませ、余った食事を与えた。昼間の疲れが襲ってきて、防空壕の中で睡眠を取ることにしたが、その被爆者の方達は、誰一人として立ち去ろうとしない。私達兵隊の側から離れようともしない。それで、一緒に、防空壕の中で寝ることにした。
 「私達は、兵隊さんの所に来たので安心しました。ひょっとして死んだら、あの様に火葬にされるのでしょうか?」 ハッとして、私はどう返事をしていいのかわからない。
 「大丈夫ですよ、日本は絶対に負けません!いつ戦死してもいいです。勝つ為に、自分達軍人は、国の為皆さんの為に一生懸命に、死ぬまで軍務に尽くします。」この返事しかなかった。被爆者の方達、疲れ切っている部下達、いつの間にか深い眠りに入る。

 ふと部下から起こされた。もう夜は明けていた。朝の5時半である。直ぐに火葬場を見る。あの赤くて燃えていた火は消えて、白い煙が静かに立ち登っている。場所を替えて、次の火葬の準備を部下に命じる。
 まてよ、防空壕の中で一緒に寝ていた被爆者の方達の様子はどうなっているのだろうか?皆横になってまだ寝ている様である。中に様子がおかしい方がいる。さてはと、一人一人の肩を揺さ振ってみる。4人程、反応がない。瞼を開けて目の玉を見る。瞳孔は開き切り、4人共、死んでいる。これ以上死なせたくない。1人でも助けたい。
 直ちに救助隊に伝令を飛ばす。昨夜、お互いに話をしたばかりなのに、火葬をするのが4人、突然に増して来た。可哀相に、又、涙が出て来た。
 10時頃であったろう。本隊に至急に帰隊せよとの伝令が自分に来た。何の要件かわからない。とっさに、負傷している私を休ませようとして、中野隊長殿が気を使われたのであろうか?その事であれば、私はまだ頑張るつもりであるが、命令とあれば、致し方ない。
 浅川兵長に後のことを宜しく頼み、兎に角、伝令と一緒に本隊に帰隊して驚いた。「海田市にある特別隊に編入転属を命ず。」被爆する前から、船舶司令部の名簿の中に私の名前は載っていたのである。
 急いで海田市にある特別隊に赴任する。遂に来た、沖縄決戦の名誉ある特別攻撃隊員である。それも幹部員である。
 船舶司令部の特別な秘密兵器である艇体は、総ベニヤ製にて長さ約6メートル、エンジンは貨物自動車エンジン60馬力、速度15ノット、艇3分の1先は、爆薬がぎっしり詰まり、先端には大きな信管が付いていて、所謂人間爆弾艇で、敵艦船手前500メートルで舵を固定し、搭乗者は、艇外の海中に飛び出し、艇だけが敵艦隊に体当たりして爆発する仕組みになっているが、敵の発見が早ければ、艇もろともに撃沈する恐れが大いにある。
 翌日より、敵艦船に突っ込みする特訓が始まった。遂に念願の原爆被害者の仇を取ることが出来る。500メートル手前で艇外に脱出しても、帰還の望みは先ずない。敵艦船のど真ん中に艇諸共に突っ込めば、私一人で見事に撃沈させることが出来る。最早決死の覚悟は出来ていた。
 いつ出撃なのか待機中である。今、8月15日の午後である。隊本部が急にざわめき出した。待ちに待った出撃出発かと歯を噛みしめて両拳を握った。
 どうも様子が変である。隊員達も頭を傾ける中、隊長が悲愴な顔をして全隊員集合を命じた。
 「・・・・・・、全隊員の諸君、戦争は終わった。ご苦労さんでした。」
 日本が勝ったのか、休戦になったのか、・・・ああ、日本は負けたのである。
 全隊員泣いている。隊長も泣いている。
 国の為に一生懸命に勉強して、陸軍兵器学校に入学し、卒業し、船舶司令部に配属され、過去4年半軍務につき、今正に特攻隊員として出撃瞬前に、終戦となってしまった。
 残念無念である。

 7日間程残務整理をした後に、故郷である島根県江津市の父母の元に復員した。
 気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。
 「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」
 「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。
 就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った前田美代子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美代子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美代子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。
 近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。
 目指す美代子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。
 「この辺と思いますが、前田義夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」
 「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、前田さん夫婦と家族の方ですよ。」
 やっと尋ねて来た前田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美代子さんの遺髪を届けに来て良かった。
 「前田さんですか?」
 「ハイ、そうですが・・・・」
 「前田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。
 「速達を下さった近本様ですか?」
 「ハイ、近本であります。」 
 軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。
 「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。
 可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。
  お互いに正座をし、おもむろに「美代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。
 「美代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。
 美代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。
 「この名札は、美代子が胸に付けていたのに間違いはありません。美代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ美代子を連れて来られました。」
 「いいえ、私の当然のことをしただけです。」
 前田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。
 広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。
 被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。
(ご愛読、ありがとうございました)

(この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のこと聞かされました。今は、残念なことに、故人となられています。被爆関係者の生の記録です。)