日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

続・母のこと・・・

 当たり前なことですが、私の生き方も、そして、私の兄弟だけでなく、私の子ども達も、母の影響を強く強く受けていると思っています。
 母の母が「天理教」の信者だったせいでしょうか、母も、「天理教」を信じていました。皆が一番嫌がってることを他人の為にするのが、一番大切だと言い、「トイレ掃除」の大切さをしばしば説いていました。それで、「たはら小児科医院」の「トイレ掃除」を、職員の代わりに、次女と息子にさせていました。
 「(19床の)たはら医院」開業8年半は、母が入院時の患者さんの食事と、その付き添いの食事と、私の食事を、母が中心になって、作ってくれました。入院が多い時でも(多い時には、1日に20人以上も)、笑顔で作ってくれました。子どものおやつも、上手に作ってくれて、好評でした。それに対して、「ありがとう。」何て、私は、一度も言ってきませんでしたが・・・今、言わせてもらいます。「遅くなりましたが、お母さん、本当に、ありがとうございました。」
 母は、私が経営上、上手く行かなくなって、「たはら小児科医院」を止む無く閉院する時も、悲しい素振りは、決して見せませんでした。私が、(20年間ほど、救急中心の小児医療をした)佐伯から離れる時も、笑顔でした。「物事の進行は、それが、天の理!」と、言ってくれました。「(開業の時に得た)趣味(茶道・書道・和太鼓・篠笛・多国語・太極拳・仕舞など)は、お金は貯まらなくても、それだけでも、儲けたなあ!」と、笑って、言ってくれました。
 母は、「笑顔に勝る化粧なし。」と言い、人と接する時の「笑顔」の大切さをよく説いていました。又、傍(はた)を楽にさせる為に「働く」と言い、「働く」のが自分より他人の為だと、よく説いていて、「喜んで仕事をしなさい。」と言っていました。大分県立病院の外科で働いたり、結婚前は、佐伯市の西田茂院長の産婦人科で、手術に関わったりしていました。私が物心が付くようになってから、母のクヨクヨ悩む姿を見たことがなく、「悩んでも仕方ない事は、悩まないことにしている。」と、よく言い、思ったら直ぐに実行するタイプの「肝っ玉お母さん」でした。
 母は、父と結婚前、ナースの仕事を活かす為、独りで、寒い時期に、船に乗り、韓国に渡り、釜山から開城を経由して、ロシアに近い北朝鮮の羅津まで、行っています。40歳頃から、仕事で、遠くまでよく行っていました。遠いから、着くまで大変では?と、私が尋ねると、「途中は、眠っているから、目が覚めたら、直ぐ着く・・・」と言っていました。私と違って、何処でも、直ぐに眠れる得意技の持ち主でした?!

「母の遺レシピ」・・・「サラサラデールの作り方」
・材料 アロエ1Kg+黒砂糖800g
 アロエをきれいに水で洗い、ミキサーかカッターにかけて液状にする。なるべく厚い(焦げ付かない為に)ナベに入れて黒砂糖を入れ、火にかけて、沸騰したら弱火にする。時々かき混ぜて、焦げ付かないようにする。途中アクを取り、アメ状になるまで煮つめるのがポイント。バットにポリ袋を敷き、煮つめたアロエを流し入れて固める。少し温もりのある時に、包丁で、約1.5cmに切り目を入れて、ハサミで切り、それをきな粉でまぶす。
 1日に1〜2個、美味しく頂くだけで、お腹スッキリ(副作用として、ガスがよく出ます)、よって「サラサラデール」と名付けました。
(たはら小児科医院 調理室より)

*私の勤務している病院では、当院薬剤部の協力の元、長期に熱が続くアデノウイルスなどの時(熱証)に、解熱効果のある座薬(黄連解毒湯)や、ウイルス性急性胃腸炎などの時に嘔吐や嘔気を止める制吐効果のある座薬(五苓散)を作成して、救急外来で、しばしば重宝しています。

*建物の写真の左の(屋根が緑の)建物が、19床のたはら小児科医院。
薩摩藩の島津家の○に十字を入れたのに似せて、たはら小児科医院のマークを作っていました。(赤色・・・救急、水色・・・誠実、ピンク色・・・寛容、黄色・・・感謝。)