日本の心・さいき

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子育て(その1)・・・

 平成26年10月1日(水)の夜のNHKの「歴史秘話ヒストリア」で、徳川家康の子育てのことが紹介されていました。そこには、将軍としての家康と単なる子煩悩な父親としての家康が紹介されていました。
 そうですね、子育ては、大会社の社長さんにとっては、その事業をする以上に、大きな仕事かも知れませんね。親業って言葉もあるぐらいですから・・・能力のない子どもが後を継ぐと、今の時代だと、会社は、あっという間に倒産してしまいますから・・・?!
 現実に、父親から息子に主導権が替わって、しばらくして倒産してしまった会社、多いです。それと全く対照的に、父親の倒産が子どもを奮い立たせて、それが財産となって、子どもが奮起して、大きな事業をしている例が、私の身近にも、確かにありますが・・・。
 徳川家康には、男11人、女5人もの子どもがいました。
 長男の「信康(のぶやす)」の子育ては、まだ、家康自身が親として若かったこともあり(←家康が18歳の時の子どもで)、甘やかし過ぎて育てた感じで、親馬鹿溺愛の結果、信康が人殺しをしたりってこともあって、信康が信康の妻(織田信長の子ども)と上手く行かず・・・最後には、織田信長から、家康は、信康の切腹を命じられ、断腸の思いで、それを実行しています。
 次男の「秀康(ひでやす)」の子は、正室の子でなく、侍女の子であった為に、産まれても会うことがなく、3歳の時に、信康の配慮で、初めて会っています。そんな秀康は、3度も、家を渡り歩いています。初め、秀吉の養子に行かせられていましたが、秀吉の子どもが出来ると、別の養子(結城ゆうき家)に追いやられています。どこにいてもけなげに努力する優秀な秀康は、家康の子どもたちの中でも武勇ナンバー1と言われる程で、最後は、関ヶ原の戦いで、上杉家を追い払い、その功績で、越前国に渡っています。
 長男信康、次男秀康も、後を継がない関係で、家康は、徳川家の後継ぎは、三男の「秀忠(ひでただ)」にしようと思うのですが・・・牛が部屋に突如飛び込んで来ても、本を読み続けて慌てない程で、ゆったりして、鈍い感じで・・・周りから、この秀忠、「泥人形」とまで言われ・・・関ヶ原の戦いで、名を上げさせようと家康が大群を与えて配慮したにも関わらず、戦場に来るのに間に合わずに遅刻して・・・家康は、次の二代目の将軍として、「秀忠」とするも、任せられず、駿府にいて、実権を握っていました。
 (世界でもこれほど長期に渡って続いた家系はまずないって感じですが・・・→)徳川家の初代の家康の人生って、晩年は、何も心配ない感じで終わっていたと思っていましたが、実際は、最後まで、苦労が絶えなかったんですね・・・?!