日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その14)

 「海外生活:バングラデシュインドネシア→マレーシア」

 年末・年始は、医師になって初めて(!)休みました。12月31日と1月1日、共に休んだのは、医師になってこの時だけですが・・・(←今からも、まだ、しばらく、年末・年始の診療を続けるつもりですが・・・?!)。

 2005/1/22〜2/8、イスラムの国であるバングラデシュダッカで(ベンガル語を2年近くみっちりと教わったAPUの学生さんの家で)ホームステイをしました。
 ダッカ空港を一歩外に出ると、グルッとモノ売りの子ども達に囲まれました。用意した車に乗るまで、ずっとまとわりついて来て、ビックリしました。
 滞在中、アチコチに連れて行ってもらいました。ダッカ大学の付属病院内にも入ってみました。人人人って感じでした。民間病院も見学しました(←ホームステイの娘さんが、産婦人科医としてそこに勤めていた関係で)。
 今年出版された本の中に、世界の140の都市の中で、住み易い所として、バングラデシュダッカが、最下位の140位にランクされていましたが・・・ダッカでは、見ると直ぐに、その人の経済的格差が分かる感じで、上位は、車を持っている人(1割?)、下位では、電気も付かない家もあり(5割?)ですが、中位は、電気もしっかり付き(しばしば昼間に停電していましたが・・・)、冷蔵庫もテレビも新聞もあり、それに、家政婦さんが2〜3人いました。
 イスラムの教えと思われますが、外部から来た人に、無償でトコトン歓迎する精神、凄いなと思いました。
 確かに、アチコチに、銃を持った憲兵がアチコチ立っていて、治安面で問題があったり、ゴミが散らかってない道路はない感じでしたが・・・リサイクルは、徹底している感じでした。人が何処に行ってもとても多い感じで、人の動きが速く、そんな中で、多くの子ども達の目は、何故か、私には、日本の子ども以上に輝いて見えました。
 結婚式や学校や施設で、篠笛・和太鼓の演奏をしましたが、ダッカの子ども達、異文化にどう反応していいのか分からない感じにも思えましたが・・・?!
 ダッカから日本に直接帰ることなく、そのまま、2005/2/9〜2/17、マレーシアのクアラルンプールに滞在しました。開発途上国とのイメージで行ったのですが、全く反対で、近代建築がずらりと並び、日本の都会と同じ(それ以上?)って感じでした。
 マレーシアのタクシーの運転手さんは、全て英語を話せる感じで、私がインドネシア語(マレーシアでは、インドネシア語が充分に通じますが・・・)で話すと、日本人でマレーシアに旅行に来て、インドネシア語を話す人に会ったのは初めてだと言われました。
 マレーシアに宿泊したホテルでは、朝の食事中に1回だけ、篠笛演奏をさせてもらいましたが、あまり反応なしって感じでした・・・?!
 クアラルンプールは、きれいな街ですね。キャメロンハイランドに2泊しましたが・・・→日本で花粉症に悩んでいる人にとっては、あまり暑くなくていい所ですね。

 2005/3/1〜3/31の約1カ月間、インドネシアのバリ島の「サヌール」に滞在しました。「クタ」が観光の中心となっていますが・・・治安の関係で、安全と思われる「サヌール」にしたのです。
 滞在中、テロの噂がずっと流れていました。「クタ」には、タクシーで1度だけ行き、爆破された所にも行きました。
 有名な「ウブド」で2泊しまいた。そこで見た「バリ舞踊」、手足の先から目の動きまで、凄いですね。(←タイ舞踊も凄かったですが・・・)
 バリ島には、日本が真夏の時に来るべきだったと思いました。この時、超暑くて、正午前後は、5分間も外にいると、汗がドッと出て来ていました。現地の人も、今年はホント暑いと言っていましたが・・・。
 インドネシア語を英語で教えてくれる人を探しましたが、いませんでした。仕方なく、現地の人皆が先生と思って、出来るだけインドネシア語で話して過ごしました。年に1度の「ニュピ」を経験しました。
 タイのチェンマイで月に10万もあれば、リッチな気分で生活出来、インドネシアのバリ島の中心地「デンパサール」では、その半分の5万で、(インドでは、3万で、中国の奥地では更にその半分で?!)生活出来そうですが・・・?!
 バリ島の人々、全てが宗教に密着して生きているって感じに思えてなりませんでした。
 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/3
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20091001/2

*写真は、ダッカの附属病院の救急外来と民間病院とダッカの街中で演奏している私(2004は、2005の間違い)。