日本の心・さいき

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趣味人間の人生のすべて(その9)


 「再び、大川市で勤務医時代」
 
 採算が合っていたら、ずっと開業生活を続けていたと今でも思っています。しかし、子どもの数の減少、(小児科を診る)医師の増加、予防や治療の進歩などで、佐伯市では、患者数が次第に減少して行きました。
 先の状況が見える状態になっていて、このままでは、赤字になって、多額の借金を抱え込んでしまって、家族が路頭に迷ってしまう・・・そう思う様になりました。
 (金銭的に頼る人が誰もいないので)そんなこともひょとしてあるかも知れないと、開業前に、万が一のことも考えて・・・→赤の他人と7年契約の賃貸関係を結び、入院設備も備えた小児科医院を造ってもらった訳ですが・・・公認会計士(←義理の弟)と相談して、8年半余後に、已む無く閉院としました。
 どこに就職するか、閉院1年近く前からかなり悩みました。頼れる人もなく(その後、大川市のT病院と決まってから、不思議な様に、いろんな話がありましたが、既に、決めた後のことでした・・・)、インターネットで調べたり、医事新報を見て、小児科医の少ない埼玉県下の救急病院に就職しようと、当初思っていました。
 埼玉県の多くの病院の中から、ここだと思った病院を探し出して、電話しましたが、(たまたまでしょうか)そっけない感じでの対応でした。数件掛けても、是非来て下さいって感じの病院はなく、頭を深く下げてお願いする感じの病院ばかりで・・・そんな中で、全く期待しない感じで、福岡県の大川市のT病院にフラっと電話しました。
 その時に電話に出た事務局長Hさんの対応が、全く今までの対応と違ったものでした。「電話して頂けただけでも、とても有難い・・・話だけ聞いて頂けるだけでも有難い・・・」と言うHさんの対応に・・・→この人は信じてもいい人ではないかと思い・・・→取り合えず、会うことにしました。
 遠い大川から佐伯まで、病院の車でわざわざ来てもらい、5時間近く(!)お互いにじっくりと話し合い、こちらの条件(独りでは無理なので、大学のバックが必要、救急医療を毎日したいなど・・・)を言って、もしも条件通りになれば、行くかも知れないと返事をしました(私のポリシーで、お金の交渉は、全くしませんでした・・・)。
 三ヵ月も経たずして、年が明けて、ある日、「先生のご希望通り、T大学から派遣してもらうことになりました・・・」との返事があり、半信半疑でT大学の小児科のホームページを見ると、確かにT病院が関連施設となっていました。
 それで、遠くまで行って留守にしたこともないのに、水曜日(午後休診)の午後に迎えに来たT病院の車で大川まで行き、T病院を見学して、次の日の診療に間に合う様に戻って来ました。(実際にT病院を見て、関係者と話して、就職先をT病院にすることに決めました。)
 T病院では、大きな病院なのに、小児科医が16年間も不在で、(産婦人科もあるのに)小児医療で難儀していました。
 就職する前の私の案で、私を含めて、5人で、小児救急を毎日することになりました。(今は、T大学→F大学の派遣となっていますが・・・T病院での小児の救急医療は、今も、続けられています・・・)
 T病院では、週に2日も休みがしっかりとありました。夏休みもそれなりに休みがありました。大川看護専門学校で小児科の講義をしたり、アチコチで講演したり、独りボランティア演奏をしたり、お茶会を開いたりしました。
 それに、(大川市教育委員会から任命されて)特別非常勤講師になって、道海島小学校で「篠笛・和太鼓」を教えたりして、充実した日々を過ごしました。
 ここが、最後の職場になるに違いないと思っていましたが・・・。