日本の心・さいき

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趣味人間の人生の全て(その2)

 「鶴谷(つるや)中学校時代」
 趣味は、将棋、囲碁、ピアノ、ギター、作曲、手品、手相。
 全校生徒の前で、ギター演奏をしました。NHKの貴方のメドレーに出して(←姉が作詞、私が作曲)、見事に落ちて、音楽の道を諦めました。
 中学2年生の1学期まで、受験勉強らしきものは、全くしませんでした。円周率を100桁まで言って、皆を驚かせていましたが・・・(←兎に角、人を驚かせるのが昔から好きだったんですね?!)
 英語が好きで、英語の教科書の文章を丸暗記していました。英語クラブと軟式テニスクラブに所属していました。第2回の英語検定試験を中学3年生の初めに受け、かろうじて、何故か3級に合格(←完全に落ちたと思っていましたが・・・)。この時、全国平均の合格率は、30%台で、1学年500人以上を有する佐伯一のマンモス校から10人受けて6人合格し、その時、塾に全く通ってなくて合格したのは自分だけで、それで自信が少し持てる様になりました。
 中学2年の2学期から、受験勉強(第1次ベビーブームの時)に入りました。受験勉強する上で、塾に行ったり、家庭教師に付いたりすることは全くなくて、お金の要らない方法、つまり、職員室によく行って、しつこく先生に質問していました。それも、一度に、質問事項を沢山まとめて、紙に箇条書きに書いて、昼休みに行きました。先生がトイレから出るのを待って質問していたこともありました(私が、授業終了後に質問するのを知ってか、サッと走って帰る先生もいましたが・・・?!)。

 「佐伯鶴城(さいきかくじょう)高校時代」
 私の高校3年間は、体力落ち、灰スクールで、この頃、大分県が全国で一番受験勉強をしていたらしく、正に、受験一色でした。当時、大分県立U高校の東大留年率は、全国一に、大分県の九大留年率は、九州一になっていて、マスコミで、話題になっていました。
 そんな中でも趣味を捨てることはなく、囲碁、ピアノ、手品、手相・・・と、楽しくしていました。芸術は、美術でなく書道を選択しました。1年の時、コーラス部に所属していました。自分が作曲した曲を、高校2年の時に、全校生の前で、自分でギターを弾いて歌いました(題は”小さな願い”・・・←ホントは、大きな願いって感じですが・・・?!。
 高校の成績は・・・好きな科目しかしないと言う、受験する上では最悪の方法で・・・読書の習慣がなかったので、国語が全くの不得手で、入学しての初めの実力試験で45点、3年生の最後の実力試験で、37点でした。社会も不得手で、世界史を選択しましたが、最後の実力試験で、48点(←100点満点、受験まで、完全に間に合いませんでした・・・)。
 受験時、数学と物理は、伸び切っていて、浪人して、国語と社会が人並みの点数となりました。それでも、高校3年生の時に実施された県下一斉模試の3回の平均では、全県下で250番となっていましたが・・・。
 現役の時、国立1期の医学部を受けるのに、学校からは、「長崎大では、5分5分だろう、徳島大だと(国語と社会の配点が少ないので)ほぼ確実」と言われたので、浪人だけは避けたかったので、長崎を諦めて徳島に変更し、落ちるイメージは全くありませんでした。(姉からは、受験前に太ったのはアンタだけよ・・・と言われていましたが・・・?!)
 大学に入ったら、剣道部に入って、体を鍛え、囲碁部に入って、頭を鍛え、真剣に勉強して、阪大の大学院に入って、将来は、大学に残って研究医になろうとの夢を膨らませていました(←ちゃんと当時の日記に、そう記載されています!)。
 しかし、化学での記入の仕方のケアレスミスで、それも、1点差でなく、0.5点差で、浪人することになりました。しかも、2浪も。
 この時、クラスの担任の先生が、付き添いで付いて来てくれたにも関わらず、クラスから徳島大の医学部を現役5人も受けて、5人とも落ちてしまいました。担任の先生も、こんなこと、初めてと言われていましたが・・・?!

*写真は、福岡県柳川市の夏祭りで演奏している私です。