日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

中津・・・

 朝、病棟の患者さん(一昨日の4:00過ぎに入院)を診察して退院させた後に、バタバタしながら、9時にタクシーで龍ケ岳を出て、9:28松島発のバスにかろうじて間に合い(既に、バスは、バス停に着いていて、トイレ休憩をしていた)、それで熊本駅に10時58分に着いた。
 JR九州の「MY WAY CLUB」に家内と一緒に入った(男60歳以上、女50歳以上、200kmだと、4割安くなる。新幹線をちょっとでも使うと、3割だけ安くなる。1年間有効で、夫婦一緒だと、会費が二人で2000円)。
 11時10分発の「有明」に走り込んで乗り(乗り込むと、直ぐに走り出した)、博多駅に行き、そこで「ソニック」に乗り換えて、中津駅で降りた。自分は、大分県人なのに(いままの人生60年の3分の2以上を、佐伯市で過ごしているのに)、中津市に来たこと、初めてだった。駅の前のホテルでは、14時過ぎなのに、チェックインしてもらえた。荷物を部屋に入れて、直ぐに、中津散策に出発した。
 (無料の自転車が中津駅にずらっと並べられていたが)運動にらないと家内が強く言うので、テクシー(歩く)にした。駅前は、正に、城下町だった。
 まず、学問の神様である福沢諭吉氏をよく知ろうと思った(頭がこれで少しは良くなるかなと期待して、・・・?)。「福沢記念旧居」とその隣にある「福沢記念館」に行った。記念館でのビデオの時間が50分間もあった。今の一万円札の初めの番号1が、そこに飾られていた(造幣局から送られてきたとのこと)。
 どうして、彼の様な人間が中津から誕生したのか、ずっと不思議に思っていた。謎が解けた。諭吉は、実にいろんな人の影響を強く受けていたのだ。又、彼の天性の才能と努力も確かにあったが、その時代が、そんな人間を要求していたのだ。
 諭吉は、1歳で父親を亡くしている。母は、その父親のことを常に話していて、諭吉が最も影響を受ける存在となっている。
 15歳の頃から、亡き父の影響でか、中津で漢学を始めている。諭吉は、又、5人兄弟の末っ子で、一番上の兄の影響を強く受けていた(男女女女男)。長崎で蘭学を勉強することになったのも、その後、大阪で緒方洪庵の元で蘭学を学ぶことになったのも、兄の影響だった。
 蘭学オランダ語を勉強し、漢学の基礎がしっかりしているせいか、そこで才能を開花させる。オランダ語が堪能であった。しかし、横浜見学で、それが通じないことから、英語の大切さを身を持って知る。そして持ち前の才能と努力で、英語も堪能になって行く。 
 諭吉は、今までの価値観に囚われることなく、欧米の目からも日本を客観的に見て、日本の遅れた姿を啓蒙することに生涯を捧げつ漢字となる。アチコチ海外に行って、「西洋事情」の10冊からなる本を出版して、当時の日本人に大きな影響を与えている。
 諭吉は、背が高く、居合切りの達人であったが、(もちろん)人を切ることは、なかった。情愛の人であったし、知っての通り、慶応義塾大学の創始者でもあった。諭吉の子どもは男4人(海外留学をさせている)女5人で、全て女でも一向に構わなかったとのこと(生まれる子は、男女平等であるべき!)。
 16時過ぎになって、慌てて、「中津城」に行った。ちょうど行く道に桜が咲いていて、それと城が実によくマッチしていたかな。
 夕食は、ホテルの前の老舗の店で、「ハモ料理」を食べた。中津のハモ料理は有名みたいで(大川では、エツ料理が有名だったなあ、・・・)、この店、NHKでも紹介されいた。
 満足、満足。明日は、宇佐に行って(宇佐に行くのも、自分は初めて)、「宇佐神宮」に行くことになっている。
(以上、4月1日、VAIOを使って、ホテルの宿泊部屋で記載)