日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

PTSD




 「PTSD」、日本語では、「心的外傷後ストレス障害」と言う。
 生命の危険を感じるような事件に遭遇し、強い恐怖感や無力感を体験した人が、そのできごとを起きている時に思い出したり(再体験)、悪夢として体験したりする(再体験)一方、そのできごとを思い出させる場面や刺激を避けるようになる(回避)ために、活動範囲や関心の範囲が狭くなってしまう(麻痺)ことがある。このような状態が心的外傷ストレス障害である。(看護学の本より)
 現在、NICUが2000床しかなくて、1000床不足していると騒いでいる。新生児の集中治療がどんなに大変かは、それを経験者した小児科医にしか分からないと思う。
 まだ、大分県の新生児・未熟児医療システムがちゃんとされていない時、昭和55年、県南で唯一1ベッドだけその為に新設してもらって(勤める病院の産婦人科の院長の同意で)、頑張っていた。その病院では、年間、レスピレーターを付けるケースが7例前後あった。8年半余、独り小児科医で大変だった。お風呂に行く時間が怖かったのを今でもありありと思い出す。分娩室の隣に寝たことも何度かあった。昼間は、ベテラン師長がいて、それなりに安心だったが、夜は、自分しかいない。ベビーを診ながら、何度、「こんなこといつまで続けるんだ!」と自問自答したことか。しかし、目の前にある生きようとしている未熟児を救わない訳にはいかない。自分が深夜急に潰れたら、その新生児の命も絶えてしまうことは、確かだった。レスピレーターを付けた状態では、送れないのだ。若かったからこそ出来たこと。しかし、その意欲も、体力の限界には勝てなかった。
 医療訴訟、これが今でも頭をよぎっている。裁判沙汰にならなくても、一歩前は、結構あった(しかし、それでも、少なかった方だと思っている)。点滴の後が傷ついて、親から不満な顔をされる。レスピレータの器具を付けて、鼻に傷が付いて、長いこと苦情の手紙をもらい、外来に何度も来られたこともあった(診察中にも)。どんなに一生懸命にしても、後遺症が残った時の無念さは、言い現せない。それに、患者側から、しばしば不満を言われると、もう、潰れてしまいそうになっていた(今でも、そんなことが、正に、PTSDって感じになっている)。
 次の内容は、昭和55年11月4日に大分合同新聞に記載されたものだ。最後のは、力尽きて平成2年6月27日に大分合同新聞に記載されたもの(この内容には、少し不満がある。個人的な犠牲に頼るべきでないと言うことを記者には言ったつもりだったが、実際は、そんな人はでないだろうって感じで書かれてしまった。)。嬉しいことに、今の大分県は、完全にそれから変身して、それなりにとても充実しているが、少ないスタッフで、やはり、大変だと思う。そうです、結論は、行政が動くしかないのです。