6月27日(土)の22:00から、NHK総合テレビで、「笑顔で戻ったテニスコート・クルム伊達公子37歳強さの秘密・勇気をくれた夫」と題して、50分間の放映があった。
一度は、完全にしないと諦めたテニスであったのに、又、ラケットを握り、しかも、元のプロのテニスプレーヤーになって、今年の日本でのテニスの大会でダブルスもシングルも優勝し、当の本人が驚いている。
26歳の時に、あれ程きっぱりと、もう元のプロに戻らないと決めたのに、再び、自分自身で同じプロの道を歩むことを何故決めたのか、それを私は知りたかった。
まず、結婚したこと。この場合は、夫の存在は大きいと思う。しかも、カーレーサーで、テニスのことは素人。これが又いいと思う。
次に、子どもと接してきたこと。引退後に、子どもにテニスを教え、テニスの面白さを教えることに専念してきている。それで、又、自分の小さかった時に、テニスが大好きだったことを鮮明に思い出して、再び、モチベーションを高く持てる様になっている。
それに、テニス界から完全に身を引いて、それ以外の自分のしたかった世界(海外に行って、日本の文化の良さに気付いて)にどっぽりと入っていたこと。「茶道」「着付け」「陶芸」など。
全てが今の伊達公子を作っていると思う。試合を見ても、楽しんでいる。そこには、負けて元々と思ってる感じで、かっての思苦しさはない。元々明るい性格の人だと思う。しかし、周りからあまりにも期待され、自由がなくなり、とうとう好きなテニスも嫌いになってしまったと思われる。こんなケース、他の人にも多いことだと思う。
自分にしても、今の自分の姿が嘘みたいに感じている。
前の救急病院を辞める時には、ホントにもう、医療が嫌になって、医師生活を2〜3年しなくてもいいと思っていた(子どもで学資がまだいる時だったので、貯めたお金をスッカラカンに使い果たしてもいいとまでは思わなかった)。ドクターの就職を斡旋している会社の掲示板の自分の説明には、「団塊の世代の小児科医です。年間3〜4分の1の仕事量を望みます。急いでいないので、2〜3年以内に、ゆっくりと考えて決めたいと思います」との内容の主旨で書かれていた(今も、その気持ちは、基本的には同じだが・・・)。
しかし、医療のイの字もしなくて、一人であちこち海外に行って、行き先でいつもしていたインターネットからのメイルで、小児科医就職の依頼がアチコチから常に来ていた(30カ所以上から)。
半年程、小児科医がいなくなって、ホントに困っている田舎の総合病院の事務長さんからの熱意に感動して、まだ、エジプトとトルコの長期滞在をする計画を突如中止して、(ずっと自分の夢であった日本の文化を持っての海外滞在中心の生活をまる1年間で中止して)今の職場に就職し、既に、まる3年になろうとしている。
へき地に勤務したことがなかったので、あまり期待してなく、それまでしてきたことと違って、最低限の荷物を持って、いつでも引き上げられる感じにしていた(それまでは、大学から次々と医者が交代で来ていた)。確かに、初めの1年間は、小児科医一人で、それなりに大変だったが、兎に角、今までと違って外来の患者さんの数が少なくて、採算の方を心配していた。17年間救急中心にベッドを持って一人でしてきた自分の経験は強かったし、中医学をしてきたことも、強かった。それに、元々教えるのが好きで、看護学校もあって、ラッキーだった。それに、1年経って、幸いにも一人小児科医が就職してくれた。
今は、(どちからが必ず拘束になっているが、二人で適当に休みを取り合っている。時に、長期休暇も)忙しい時もあるが、気持ちが前とは全く違っている。自分なりに楽しく救急が出来ているし、大好きな趣味も適当に出来ている。
子どもや親御さんだけでなく、歳のせいか、相手の立場が前よりはよく理解できる様になっているかな。親御さんと話す時、楽しく話している自分に気が付く。エンドルフィンが少し出て、イチローや羽生名人みたいにはいかないが、少しアルファーがかった脳波が話している時に出ているかも知れない。
*伊達公子の話から、・・・イギリスでの大きなテニスの試合で、西ドイツ出身のテニスの女王シュテフィ・グラフと、一進一退の熾烈の闘いをしていた。多勢の観客が見守ってシーンと静まりかえっているその会場で、突如ある男性の観客が、「グラフ、試合が終わったら俺と結婚してくれ」と言った人がいて、グラフの手が止まり、周りがドット笑い、グラフも笑った。その時、グラフは、「お金沢山持ってる?」と言い返している。で、又、ドット笑いが起きた。お茶目な伊達公子は、グラフの言い方に続いて、次の様に言えなかったことを後悔しているとか「私じゃ駄目?」と。
*平成19年の「五橋祭」で太鼓を打っている私。