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退職後の雑感(307)

  「退職後の雑感、307」

 令和4年11月16日(水)の12:00から、私の母の姉の子どもと、私の長兄夫婦と、私達夫婦の5人で、12:00から、昼食を一緒に摂りました。2時間以上、話が尽きませんでした。
 その従兄弟(女性H)とは、永いこと会っていなくて、久し振りの再会でした(30年以上会っていない?!)。一学年上で、1年間、私の家に下宿していたとのことで(←あまりよく覚えていませんが)、当時の私のことを話してくれました。
 私が、楽しそうに、鼻歌交じり、勉強していたみたいで(中学3年生の時)、こんなに勉強を楽しく出来る人もいるんだと知って、驚いていたとのことでした。
 思い出すと・・・→中学生の時の私は、(小学生の時も同じだったかな)覚える事が楽しくて楽しくて、ゲーム感覚で覚えていた様な気がします。全くの独学で、塾には、全く無縁で、よく、学校で、(お金が要らないので、職員室に行って)先生に個人的に教わっていました。兎に角、覚え方も、自分なりに工夫して、覚えていた様に思います。当時は、高校入試の教科は、英数国社理以外に、体育、技術家庭、音楽、美術とありました。(高校では、それが一変して、好きな教科しか、勉強しなくなって、成績が落ちて、受験に失敗して、二浪しましたが・・・)
 私の母の(誰にも聞いてなかった)苦労話も知りました。母は、男3人女3人の兄弟で、女3人の真ん中でした。(家が旅館業をしていて)、3人娘がそれを手伝っていて、よく、母だけが、茶碗をひっくり返していて、親から叱られていたとのことで・・・その理由が、ずっと分からなくて、しばらくしてやっと分かって・・・→母は、強度の近視で、よく見えなかったからなんですね。母は、6人兄弟の中でも、目立って、記憶力が良くて、一度聞いたら忘れない頭の持ち主で、周りを驚かせていたとか・・・?!
 私が佐伯の西田病院で働いていた時、(半年経っていない)Hの子どもが、佐伯に帰る時、大分空港で、高熱になっていて、その時、電話が私に掛かり、私は、空港から直ぐに私の所に来るように言って、私がしっかりと診てくれて、「大丈夫!」と言われて、とても有り難かったとのことでした。(←私は、殆ど覚えていないのですが・・・)
 Hの兄弟5人は、今も、健在で、Hは、私を見て、「昔と、何も変わっていない!」、と言ってくれました。
 驚き、懐かしみ、そして、笑いこけました。

*写真は、昭和43年3月の高校卒業時の卒業アルバムの写真。

 (令和4年11月18日、記載)