日本の心・さいき

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湯川秀樹・・・

 9月7日は、日本で初めてノーベル賞をもらった人、湯川秀樹が亡くなった日だ。今までに日本では、文学者の川端康成大江健三郎、首相の佐藤栄作など、12人がもらっているが、その中でも、この湯川秀樹の功績は、群を抜いていると思う。
 何故なら、戦後に、日本人の多くが自信を失っている時に、独創的な発想で、「中間子理論」を打ち立てたからだ。
 湯川秀樹ノーベル賞を授与されたのは、私が生まれた年の1949年(昭和24年)。小さい時に、湯川秀樹の話を、私の父から何度も聞いた。
 彼は、初めは結婚する気はなかったそうであるが、結婚すればお金のことを心配しなくていいし、好きな物理の研究を思い存分出来ると考えていたようであった。その時見合いをした相手に湯川が思った以上に気に入って、一目惚れって感じで結婚して、婿養子になって、小川の旧姓を湯川に変えている。
 私と同じ、3人男の末っ子。理数系は強かったが、それ以外は出来なくて、大学の道も諦めかけていた。その時の旧制3高のクラスの同級生に、朝永振一郎がいた。
 湯川と朝永とは、正にライバル同士で、物理の成績は、共にずっと100点が続いていた。共に、京都大学の物理学に進む。性格は正反対で、湯川は、やや気性が荒く、朝永は、常に冷静なタイプであった。
 湯川が中間子理論を発表した時には、周りから認められなかったが、朝永だけがそれを高く評価した。で、実際に、その後に中間子の存在が実証され、湯川の中間子理論が正しいと証明された。晩年、湯川は、アインシュタインの影響を受けて、世界の平和運動に加わって活躍している。
 朝永も、湯川のノーベル賞受賞後に独特の考えを打ち出し、今度は、それを湯川が後押しをして、目出度く、日本で2番目のノーベル賞受賞者となっている。
 朝永が先に亡くなってしまって、その時、湯川は、最良の友を失ってとても悲しんでいる。

*私の場合、湯川の話を聞いていて、小さい時、養子にも憧れた時がありましたが・・・?!