小さい時の出来事、まだ、ありありと覚えています。今考えると、信じられないって感じですが・・・。
その1、私に物心が付いた頃、父は、既に、小学校の校長をしていました。で、佐伯に住んでいる時、時々、父に電話が掛かってきました。
家には、電話はなく、道路を隔てて、斜め隣で、10mぐらいの距離にある酒屋さんに、電話が掛かり、そこの人が、私の家に知らせに来て、電話していました。
電話が家にない時代で、いきなり、夜、教員の訪問客ってこと、しばしばでした。
今は、一人一人が、電話出来ます。雲泥の差ですね。
その2、隣の家に冷蔵庫があり、スイカを、隣の家では、美味しく食べていました。我が家には、冷蔵庫なく、冷蔵庫のある家に、憧れていました。で、冷蔵庫を我が家が買った時、ジュースを何度も凍らせて、美味しく食べていました。
今は、多くの家が、冷蔵庫、持っていますが・・・。
その3、小さい時、服なんて、お古ばかりでした。それが普通で、新しい服を自分が初めに着る時は、恥ずかしい思いをしていました。
修学旅行の時、新しい学生服を着て、大阪・京都に行ったのを覚えています。その時、経済的な理由だけで、修学旅行に行けなくて、行く人を見送ってくれた友達も、いました。
その4、子ども用の自転車は、私が小さい時に、最も憧れていたものです。
大人用の自転車に乗ると、よく、倒れて、怪我をしていました。とうとう、最後まで買ってもらえなかったのですが、そのせいでしょうか・・・私の場合は、車の憧れは、(大学で、車の免許証と取っても、あまりなく、最後は、更新しなくて終わりましたが)今もなく、自転車で止まっています。
で、今は、歩く方が健康的との理由で、よく歩いています。
今は、一家に、二台の時代ですが・・・。
その5、小学校の時、クラスで、(教材などで)お金を生徒から徴収するのに、いつも持ってきてなくて、先生が、その人の名前を黒板に長く書いていました。
今考えると、その子の気持ち、全く分かっていなかったと反省しています。忘れていたのでなく、家にお金がなかったんですね。
その6、昔は、教師が、言うことを聞かない男の子に、バケツに水を入れて立たせたり、棒でお尻を打ったり、ゲンコツしたりしていました。
今だと、問題になりますが、そんな時、親が、「お前がちゃんとしないから・・・」と言って、教師にクレーム付けることなく、子どもを叱っていました。
多くの学校の先生が、社会から、尊敬されていました。
その7、お金を手にした時、直ぐに使っていました。
ある日、風鈴を売る人が回って来て、私は買えず、次兄が、貯めていたお金で買い、それを掛けて、いい音色を出していました。私も、その時、買いたかったのですが、お金がなくて買うことが出来ませんでした。そんな私を、母が見て、「ホラ、マコト(次兄の名前)さん、偉いでしょ。ちゃんとお金を貯めていたから、要る時、買えるでしょ。」と言われ、その時から、必要な時に備えて、お金を貯めようと思いました。
しばらくして、母が、郵便局の貯金通帳と印鑑を作ってくれて(小学校の4年生頃でしょうか?)、それをずっと継続して、今に至っています。
今度、来年中には、限度額が、300万円、アップするのかな・・・?!
その8、小学4年生の中頃まで、トイレを、同じ敷地内にある家族と一緒に使っていました。で、朝は、とても混んでいて、待つことが多くて、難儀していたのを覚えています。
その家族の子ども達、お腹があまりにも空いて、泣いていました。
ある年の12月の暮れに、市の職員の人が、その家族の母親に、お金をあげるのを目の前で見ていました。
当時、多くの人が、ホント貧乏でした。
その9、小さい時、牛乳が飲みたくて仕方ありませんでした。
母から、「〇〇校長先生の所、子どもがいないので、そこに養子に行くか?毎日、牛乳飲めるぞ・・」なんて言われて・・・。
「牛乳飲みたいし、この家も捨て難いし、どうしようかなあ?」なんて、真剣に考えたこともありましたが・・・。
その10、小さい時、隣の家の人から「ボンちゃん(私の愛称)、赤ちゃん要るならあげるよ・・・」と言われました。私なりに、そんな事、出来るはずないと思いながらも、母に尋ねると、いいよと言う。本当かなあと思い、(赤ちゃん大好きな私は)本当にもらえると信じていました。
で、そうでないと知り、それ以後、嘘をつくので、大人の言うことは、信じられない、大人、大嫌いということになりました。