日本の心・さいき

日本の心で、世界平和の実現を!

人生の分かれ目・・・

 人生、それがなかったら、180度変わっていただろうと思う事ですが・・・?!

その1、出生時の時。
 母親から、何度も聞かされてきたことですが・・・、
 兄弟、男男女と産まれ、次、私の両親としては、女を望んでいたみたいですが、私が産まれました。で、妊娠初期にも、経済的な理由で、どうしようかなあと母は、かなり悩んだみたいですが、父が、「せっかくだから、産んだら(これで最後で)・・・」との意見で、産んだとのこと。
 私、危なかったですね。正に、父は、私の恩人、次の子は、もう、母は、卵管を結んで、産まないようにしました。


その2、大学受験の時。
 大学受験で、一期校の徳島大学医学部を受ける時、化学の問題で、記入の仕方を間違えました。で、1点でなく、0.5点足りずに、不合格になりました。高校の後輩には、私のその話、しばらく、話題になっていたみたいですが・・・。
 で、2浪して、やっと、受かりましたが。
 それも、偶然で・・・→私の場合、超国語不得手で、数学得意でした。で、いつもは、鹿児島大学の数学の問題、易しいのですが、その時、今までの傾向とガラッと変わって、超難しく、しかも、国語が難しく、で、得意の数学で、他の人と引き離し、国語で、何とか差を付けられずに終わり、首尾よく、合格出来ました。
 私は、団塊世代の最後の年で、ベビーブームの時で、浪人が加わって、現役受験の時、難しくなっていて、翌年の1浪の受験の時、東大入試中止で、又、難しくなっていました。

その3、西田病院勤務の時。
 県病→医大で、研修後、郷里にある救急病院に就職しました。その時、西田病院では、45周年記念の時で、増改築し、脳外科を新設する計画でした。
 西田病院は、民間病院なので、不採算の小児科は、置かないとずっと思っていました。母が、昔の西田病院の看護師をしていて、西田病院の初代院長とは、普段から懇意にしていたこともあり、「まあ、ちょっと尋ねてみるわ・・・」って感じで、尋ねると、「是非、来て欲しい、産科があるので、困っていた・・・」との返事で、そこに即就職することに決まりました。
 増改築工事も、小児科を新たに入れての、改築工事が加わりました。
 とても忙しい病院でしたが、仕事がとてもし易い病院でした。

その4、開業の時。
 10年間半、西田病院で、ガムシャラに仕事をしました。マイペースで。そして、独り常勤医の状態が、8年半も続きました。深夜の時間外が増え、ベビーのお産の数も増え、睡眠不足状態の私の体力は、常に、限界でした。2年間だけ、医大の協力を得て(常勤医を頂いて)いたのですが、医局員不足で、それも出来なくなり、止む無く、開業をしました。それも、開業する前の半年前に、急に思い立ってで、自分でも、驚く感じの突然の決断でした。

その5、閉院の時。
 ど素人での開業経営で、次第に少子化傾向にあって、又、小児科が別に新設したこともあり、この先、借金地獄になると思い、8年半で、閉院しました。閉院する年の暮れに、インフルエンザが流行しないと予想したのです。当時、インフルエンザ流行で、小児科、何とかやって行ける状態でしたから・・・。
 私の予想は、的中し、開業を続けていたら、赤字になっていました。閉院して、こじんまりと、佐伯で、外来だけでするつもりでしたが、いい所がなく、止む無く、インターネットで、県外を探しました。
 埼玉あたりを必死になって探しましたが、反応が冷たく感じました。そんな中、大川市の高木病院だけは、全く違っていました。
 「お電話だけでも、ありがたいです。是非、お話だけでも聞いて下さい・・・」との丁重な事務局長さんの初めの言葉で、私は、ハッと思って、ひょっとしたらいいのではと思って、会うことになりました。
 私の希望が叶えられ、そこに就職することになりました。

その6、独り旅。
 大川市の高木病院では、私の意見が通って、(部長の)私を含めて5人で、24時間体制で、小児救急医療をしていたのですが、T大学の小児科が、もう、医局員を送れないと言ってきて、2年8カ月して、止む無く、そこを辞めることになりました。
 その時、偶然にも、大分市の病院での話があり、そこに就職しました(T大学は、派遣先として、西日本では、高木病院と大分市のその病院の二カ所だけでした)。漢方薬のことで、病院側と折り合いが付かず、病院側の意向で、2年2カ月して、そこを突然、退職しました。
 もう、医療をするのが嫌になって、突如、独りで、旅に出ることにしました(←前々から、いつか、しようと計画していましたが)。55歳の時でした。

その7、1年間の海外中心の生活。
 初めは、トルコに行くつもりでしたが、(私の)トルコ語の先生が、その時、トルコに帰れなくなって、突如、イスタンブールが、タイのチェンマイに変更になりました。
 (私の場合、どこにいても、ただでは起きない性格で)大分市での病院勤務の時は、土曜の午後、バングラデシュダッカの人から、ベンガル語を、インドネシアジャカルタの人から、インドネシア語を、タイのチェンマイの人から、タイ語を、アフリカのコモロの人から、アラビア語を、トルコのクシャダスの人から、トルコ語を、直に、マンツーマンで、同時進行で、教わりました。(←全て、別府市にある、アジア太平洋大学APUの学生さんから)
 タイのチェンマイでは、最後の方は、(1カ月半余、必死になって勉強したせいでしょうか)タイから日本に帰る時、殆ど、タイ語だけで過ごしていました(←自分でも、その上達振りに、驚いていました)。
 (太鼓を持っての)タイのチェンマイ→(太鼓を持っての)ニュージーランドオークランド→韓国の釜山(ハングルの語学学校に通いました)→(太鼓を持っての)バングラデシュダッカ→マレーシアのクアラルンプール→インドネシアのバリ島のサヌール→イタリアのフィレンツェ(イタリア語の語学学校に通いました)→カナダのバンクーバー(英語の語学学校に通いました)とトロント(英語の語学学校に通いました)と、(日本に帰りながら)海外でロングステイをしました。後、エジプトのカイロに、アラビア語の先生と一緒に行く予定が、都合で、それをせずに、上天草総合病院就職となりました。

その8、上天草総合病院の時。
 1年間の海外生活で、お金も使いましたが、スッカリ、精神は、リセットした気分になり、又、上天草総合病院で、約12年間、頑張ることが出来ました。
 上天草総合病院に就職する時の私の条件は、2つだけ、「漢方薬を自分なりに使わせて下さい。」と「救急を毎日するので、協力して下さい。」でした。
 それが叶えられ、そこで、(まとまった休みも頂け、海外や国内)旅行も、悔いなく出来、演奏も悔いなく出来、多国語の勉強も悔いなく出来、老後の資金もそれなりに貯まり、白内障と胆石の手術もそこでしてもらいました。

その9、井上病院の時。
 医師生活を辞めるまで、居心地のいい天草での生活をするつもりでしたが、我が家が佐伯にあるのに、天草生活では、年に2〜3回しか帰らず、佐伯の人とも疎遠になっていたので、いろいろ先を考えた末、佐伯市の近くの延岡市に、突如、就職することにしました。
 延岡市の井上産婦人科病院では、救急はなく、当直もありません。が、日・祝日の当番医が年7回あり、19:30〜23:00までの急病センターが、月に1〜2回あります。
 身体の調子は、万全ではありませんが、もう少し頑張れる感じです。

その10、フリーランスドクター?
 又、今までない感じの新しい世界が開けるかなあ・・・?!